大洋の背番号「1」、名二塁手として活躍した近藤昭仁氏 監督時代は「七夕の悲劇」

近藤昭仁氏の通算成績
近藤昭仁氏の通算成績

168センチ、65キロと小柄ながら守備、バントで「つなぐ野球」の名手

 3月27日、大洋ホエールズの名二塁手として知られた近藤昭仁氏が亡くなった。80歳だった。近藤氏は1938年4月1日生まれ。野村克也、長嶋茂雄らの2学年下。香川県の名門高松一高から早稲田大学に進み、東京六大学屈指の名二塁手となる。

 当時の大洋は東京六大学の有名選手を多く獲得していた。1960年に大洋に入団。この年は、高松一高(旧制高松中)、早稲田大学の大先輩である三原脩が、大洋の監督に就任。三原監督は、開幕当初こそ芝野忠男や中村敏行を二塁手に起用したが、次第に近藤をスタメンで起用するようになり、1年目から規定打席に到達。球団創設以来初のリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは、1番二塁で出場し、3戦目では決勝の本塁打を打ち、シリーズMVPに選ばれている。

 2学年先輩に、同じ東京六大学の明治から入団した一塁手の近藤和彦がいた。二人は「近藤和」「近藤昭」と呼ばれ、長く親しまれた。168センチ65キロと小柄で、俊敏な二塁守備と、バントなど「つなぐ野球」の名手だった。1962年から4年連続でリーグ最多犠打を記録。1965年には当時のNPB記録である41犠打をマーク。この年は打率.285で、打撃ベスト10の7位に入る。62年と65年には、オールスターに選出されている。

 しかし、リーグを代表する名二塁手でありながら、一度もベストナインには選ばれていない。当時のセ・リーグには中日の高木守道、巨人の土井正三という名二塁手がおり、この二人の陰に隠れた形となった。当時はゴールデングラブもなかったので、表彰されることはなかった。

ロッテ監督時代はプロ野球ワーストの17連敗、7月7日「七夕の悲劇」

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