【あの夏の記憶】「本当は鹿実に行きたくなかった」定岡氏の心を動かした身近で最大のライバル

身近にいた最高のライバル、兄・智秋を超えるために―正二は見事に甲子園出場を果たす

「今まで言ってこなかったけど(鹿児島実進学のきっかけは)兄かもしれないですね。子供の頃に、久保監督と会っているのも少しあるかもしれない。潜在的に行くべくして、鹿実に行ったんじゃないかなと思う」

 身近に最高のライバルがいた。兄を超えるには、甲子園出場しかない。厳しいことで有名な鹿児島実に進んだ。兄の存在があったから、頑張ることができた。

 目標は叶い、高校2、3年時に甲子園に出場。南海に入った智秋氏も練習や試合の合間を縫って、甲子園に応援に来ていたという。正二氏は3年時に夏の甲子園ベスト4に進出し、アイドル投手として人気を博した。準々決勝では東海大相模と延長15回、213球を一人で投げ抜いて、1点差で勝利。甲子園の伝説の1試合となっている。

「あの試合は、真っ白になったというか、自分が自分じゃなくなる瞬間があったんです」

 疲れも、怖さも感じない。ただ、がむしゃらに投げ続けていた。後にプロになった後もそのような感覚に陥ったことはない。完全燃焼、やり切ったと思える試合だった。

 あれからもう45年が経った。そして、また球児にとって熱い夏がやってくる。

「練習してきたことが大会で出し切れないのが、一番、悔いが残ります。失敗してもいい。燃え尽きるまでやってほしいですね。周りの評価なんて、関係ない。僕も高校野球で学ぶことがたくさんあったし、一生分の経験をしたと思っています。これからの人生、大きな財産としてみんなの心に残っていくと思います。球児たちにはやり切った大会にしてほしい」

 1974年の夏。甲子園のスタンドからの声援は定岡氏に向けられていた。入学に迷ったことも、練習が嫌な時期もあった。それでも、あれだけの多くの人の感動を呼んだのは、最終的に芯を持って、全力を出し切る投球をしていたからなのではないだろうか。定岡氏はそんな球児を見守っている。

【動画】「自分が自分じゃなくなる瞬間があった」アイドル球児だった定岡正二氏が振り返る夏の熱投と球児へのエール

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