かつては「戸田の問題児」―燕・畠山を変えた指揮官、最後に見せた粋な計らい

ヤクルト・畠山和洋【写真:荒川祐史】
ヤクルト・畠山和洋【写真:荒川祐史】

館山とともに引退記念セレモニー 神宮を沸かせた男がユニホームを脱ぐ

 最後の打席も慣れ親しんだ“4番”だった。今季限りで現役引退を表明した畠山和洋内野手が21日に神宮球場で行われた中日戦で引退試合に臨んだ。6回、小川淳司監督の計らいで先発出場した4番、バレンティンの代打だった。中日・柳裕也投手の142キロ直球を打ち上げたが、右前にポトリと落ちる安打で最後を締めくくった。

「安打はちょっと恥ずかしかったけど、自分のスイングはできました。とにかく今日はなぜか冷静だった。観客の声援がよく聞こえたし、プロ生活で最も冷静だったと思います。2軍の試合でもこんなことはなかった。不思議ですよね。自分でもなぜだかわからないけど。柳投手もCSがかかっている大事な試合で全球直球勝負。点差がついていたということもあったけど感謝しています」

 4番でのフィナーレ。小川監督の演出だった。指揮官は畠山の最後の打席をどうするか……起用を考えていた。「してあげたいこともあるけれど、こればかりは相手チームも関わってくること。相手に迷惑もかかるし……」。まだ順位は決まっていないため、あらゆる方法を考えた末、バレンティンにはわがままを聞いてもらった。2軍監督を務めていた時からずっと見てきた教え子のために……

 畠山はかつては「戸田の問題児」と言われていた時期があった。2000年ドラフト5巡目で専大北上高校から入団。練習はさぼる、戸田の寮を抜け出すなど目に余る行動が多かった。しかし、畠山の持つバッティング技術など、素質を見抜いていた小川監督は、「何が何でも自分が1軍で活躍できる選手にする」と、厳しい指導を続けた。

 2010年、1軍で指揮を執っていた高田繁監督の成績不振による途中休養に伴って、ヘッドコーチから監督代行として小川監督は指揮を執ることになった。機能しなかった外国人外野手ではなく、畠山をそれまで守ったことのない外野で起用。打線に変化を付けた。すると、その起用が大当たり。畠山自身も打率3割、本塁打も当時の自己最多の14本塁打と好成績を残した。小川監督代行も「そこ(畠山の起用)が自分の分岐点。活躍が今の自分に関わっている」と存在は大きなものとなっていた。借金19から貯金4と成績を取り戻し、その手腕が評価され、翌年から監督になった。翌年、畠山を4番に据えるとリーグ2位タイの23本塁打を記録。チームも優勝争いをした。畠山と歩んだ時間は代えがたいものとなった。

 だから、花道を作ってあげたかった。畠山は代打ながらも用意された“4番”のイスに「想定外で嬉しかった」と感謝の思いを口にした。2軍生活が続く中、「自分だったら、若い選手にこう教えるな」などと思いながら、試合を見ていることも多く、いつか指導者としてやってみたいという気持ちも芽生えた。数々の指導者から受けた教えを今度は若い世代に伝えたい。これが小川監督への最大の恩返しになるのかもしれない。

(新保友映 / Tomoe Shinbo)

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