父と同じ26歳で… 中日近藤が“区切り”のトライアウトへ「少しは恩返しできたのかも」

中日から戦力外通告を受けた近藤弘基【写真:小西亮】
中日から戦力外通告を受けた近藤弘基【写真:小西亮】

初登板ノーノーの父と同じ歳で竜のユニフォーム脱ぐ中日近藤

 奇しくも同じ年齢で、ドラゴンズブルーのユニフォームを脱ぐ。今季限りで中日を戦力外となった近藤弘基外野手。プロ野球唯一の初登板ノーヒットノーランを達成した父の真市・現中日スカウトが現役引退したのも26歳のときだった。若くして人生の決断を迫られた父の背中から学んできたのは、セカンドキャリアの大切さ。節目として11月12日の「プロ野球12球団合同トライアウト」に出場し、新たな可能性を模索していく。

 まだ背番号が3桁だった入団1年目の2015年は、育成選手と1軍投手コーチの関係。顔を合わせる機会も多くなく「親子という感覚が抜けませんでした」と近藤は回顧する。意識が変わったのは、翌16年に支配下登録を勝ち取ってから。デビュー戦では猛打賞を記録。1軍に食らいつくことで「プロ」としての自覚も増し、同じベンチにいる父は、「近藤投手コーチ」として接することができた。

 その年は夏場以降21試合に出場し、2本塁打。将来の外野の一角を担う期待を抱かせたが、17年は14試合、18年は5試合と出場機会は減少。そして今季は1軍出場なし。確かに2軍戦でも打率2割前半だったか、ほとんどの選手が一度はチャンスを与えたれただけに「自分もどこかで…」。その期待は叶うことなく、10月1日に迎えた戦力外通告。「もう9月ごろには覚悟を決めていました」。張り詰めていた糸がぷつりと切れ、未練すら残らなかった。

 吹っ切れた息子の表情に、父は「涙は出なかったわ」と少し安心していたという。寂しさを押し込め「これからは、家庭を守るために頑張りなさい」とエールを送った。その言葉の重みを、近藤は噛みしめる。「父は若くして現役を引退して現実を見てきた分、セカンドキャリアがいかに重要か分かっているんだと思います」。会社員であれ、指導者であれ、第2の人生は選手生活よりもはるかに長い。

「どんな道を選ぶにせよ、ひとつの区切りをつけるためにやり切る」。昨年7月に結婚した妻の菜月さんや、応援してくれるファンの思いも受け、人生の区切りとしてトライアウト出場を決めた。NPBで現役を続けられるに越したことはないが、結果にかかわらず中日の背番号67としては最後のプレーになる。6と7を足せば、父が現役時代に背負った「13」になる。「理想を言えば、1軍に定着した姿を見せたかったけど、父と同じチームに入って1軍で一緒に戦えた。少しは恩返しできたのかもしれません」。孝行息子は最後に目一杯バットを振り、次なる道へ進む。

(小西亮 / Ryo Konishi)

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