松井稼、片岡… スピードスターが背負ってきた背番号「7」を引き継ぐ西武金子

松井稼は1997年~2003年、復帰した2018年に「7」をつけた

 西武ライオンズは1950年に「西鉄クリッパーズ」として創設され、翌年「西鉄ライオンズ」となる。初代の背番号「7」は戦前からユーティリティプレイヤーとして活躍した鬼頭政一。鬼頭はのちに「太平洋クラブライオンズ」(1976年)、「クラウンライターライオンズ」(1977年)の監督も務めた。

 八道(やじ)勉は、ハワイ出身の日系二世内野手。1953年からは中西太、大下弘とともに全盛期の西鉄ライオンズの中軸打者として活躍した豊田泰光がつける。豊田が国鉄に移籍すると、メジャーリーガーのジム・バーマがつける。バーマは二塁手として主に守備で貢献した外国人選手。

 浜村健史(孝)も内野守備の名手として鳴らした。伊原春植は三塁手。のちに西武ライオンズの監督も務めた。広瀬宰はロッテ、中日を経てライオンズに。守備が光った遊撃手だった。

 鴻野淳基は名古屋電気高から1979年ドラフト1位で西武入団。いきなり「7」をつける。翌年に石毛宏典が入団すると「38」に変更となった。「7」での一軍出場はなし。のちに西武、巨人で活躍した。

 石毛宏典は1980年にプリンスホテルからドラフト1位で入団し、1年目から3割を打ち新人王。走攻守揃った名選手として活躍した。ライオンズの背番号「7」では最多の1806安打を記録した。

 ダリン・ジャクソンもリードオフマンとして活躍。

 松井稼頭央はPL学園からドラフト3位で入団。3年連続盗塁王を獲得するなどイチローが移籍したあとのパ・リーグをけん引したスター選手。入団4年目の1997年から、2004年にMLBに挑戦するまで「7」をつけた。

 2005年から「7」をつけた片岡易之も4年連続盗塁王になった韋駄天。2014年に巨人にFA移籍すると、その人的補償で巨人からやってきた脇谷亮太が2年間「7」をつける。

 2018年は、15年ぶりに西武に復帰してこの年限りで引退した松井稼頭央が再び「7」をつけた。

 金子侑司は今季2度目の盗塁王となった。「7」を継承するにはふさわしい選手と言えるだろう。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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