「五輪で勝ったら褒められる」 ノムさんに導かれた侍J稲葉監督のプロ人生

侍ジャパン・稲葉篤紀監督【写真:福谷佑介】
侍ジャパン・稲葉篤紀監督【写真:福谷佑介】

野村氏の一声でヤクルトがドラフト指名、「恥をかかせたくない」と奮闘した稲葉監督

 11日未明に虚血性心不全のため急逝した元ヤクルト、阪神、楽天監督の野村克也氏。現在の野球界でも数多くの“野村チルドレン”が監督、コーチを務めており“野村イズム”は脈々と受け継がれていっている。

 野球日本代表「侍ジャパン」を率い、東京五輪で金メダルを目指す稲葉篤紀監督もその1人だ。野村氏が亡くなった11日にソフトバンクと巨人のキャンプ地を訪れた稲葉監督は「本当にまさかということで非常にびっくりしています。12月に野村監督を囲む会ということで食事会には誘っていただいたきましたが、時間取れずに参加できなかった。参加できなくて非常に後悔しています」と惜しんだ。

 野村氏と稲葉監督の縁は1994年まで遡る。当時、法政大の4番だった稲葉監督。野村氏は、息子の克則氏(現楽天1軍作戦コーチ)の出場する明大対法大の東京六大学野球秋季リーグを観戦に神宮球場に訪れた。その2試合で2本の本塁打を打ったのが稲葉監督。この試合で稲葉監督に目を付けた野村氏がフロントに進言し、ヤクルトは稲葉監督のドラフト指名を決めた。

 一塁手しか守ってなかった稲葉監督を、後にゴールデングラブ賞を獲得する外野手にコンバートさせたのも野村監督だ。稲葉監督も「野村監督も言っていることですけど、大学の試合を見にきて、それで私を取っていただいた。野村監督との出会い、そこからの縁というか、そういうものが始まって、野村監督に恥をかかせたくないと思いましたし、取っていただいた恩返しをしようということで過ごしてきた」と、その縁を振り返った。

 そして、プロ入り1年目の1995年から野村氏がヤクルトの監督を退任する1998年まで教えを受けてきた稲葉監督。その後も事あるごとに叱咤激励を受けてきた。侍ジャパンの監督に就任してからも、愛あるゲキを貰ってきたという。

「TVではよく叱咤激励をいただいていて、その叱咤激励も野村監督らしい愛情のある言葉なんだと私は受け止めていました。非難されている内は、まだまだ僕に成長があるなと感じて、僕の励みになってジャパンの監督を引き受けてこれまでやってきた」

 東京五輪本番の年に開幕を待たずに急死した野村氏。稲葉監督は「オリンピックで勝ったら褒められるんだろうな、って自分の中で思っていて、それまでは色んな叱咤激励を頂きながら、頑張ろうと思っていた。それも聞けなくなる寂しさというのはあります。残念ではありますけど、いい報告ができるように、立派な監督になったと報告できるようにやって行きたいと思います」と“恩師”に捧げる金メダルを誓っていた。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)

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