巨人はなぜ9連覇出来たのか? 長嶋&王で無敵も、潮目を変えたドラフト導入

王、長嶋の猛打が光った前期、苦戦を制した後期

○王、長嶋の猛打で他球団を一蹴した前期

 滑り出しは楽勝だった。巨人は1965、66、67年といずれも2位中日に10ゲーム以上の大差をつけて優勝。この3年間は、王がいずれも本塁打、打点の2冠。長嶋も66年に首位打者を獲得し、中軸は手がつけられなかった。

 懸案だった投手陣も、城之内が21勝、21勝、17勝。中村稔も65年に20勝を挙げた。宮田征典がほぼ救援のみで20勝(うち19勝がリリーフ)を挙げ、「8時半の男」の異名が付いたのも65年だ。この年は20勝投手がチームに3人もいたのである。

 同年ドラフト1位で入団した堀内恒夫は、翌66年に開幕13連勝を含む16勝の鮮烈なデビューを飾り、以降13年連続2ケタ勝利でエースの座に就いた。金田も移籍初年度の65年に防御率1.84で現役生活最後のタイトルを獲得し、67年にも16勝を挙げた。

○右の堀内、左の高橋一で牙城を守った中期

 V9序盤の3年間、宿敵の阪神はいずれも3位に甘んじていた。1964年に「世紀のトレード」で大毎から移籍した大打者・山内一弘が期待通りの成績を挙げられず、打線が弱体化。山内との交換でエースの小山正明が流出したのも痛かった。

 しかし、68、69、70年の3年間は、その阪神が復活し、巨人と優勝争いを演じた。江夏豊が66年第1次ドラフト1位で入団し、68年に日本記録のシーズン401奪三振をマーク。村山と並ぶエースにのし上がった。強打の捕手・田淵幸一も、68年ドラフト1位で入団した。

 一方で巨人は堀内に続いて左腕・高橋一三が台頭。巨人、阪神ともに左右のエースが活躍する時代となった。ONが引き続き猛打を振るった巨人に対し、阪神は68年に5ゲーム差、69年に6.5ゲーム差、70年には2ゲーム差と肉薄したが、結局牙城を崩せなかった。

○戦力均衡で苦戦も、つばぜり合いを制した後期

 1971年からの3年間は巨人と他球団の戦力差が縮まった。65年に始まったドラフト会議で阪神に江夏、田淵、中日に星野仙一や谷沢健一、広島に山本浩二、ヤクルトには若松勉らと有望な顔ぶれが加わった。巨人にも堀内に続き、67年ドラフト1位で高田繁が入団したが、ドラフト導入以前ほど有力選手を独占できなくなっていた。

 また、ONのうち王は健在だったが、長嶋は71年の首位打者が最後のタイトルで、以後は成績が下落していた。72年は夏場まで巨人と阪神がデッドヒートを演じた。それでも、巨人が8月26日からの9連勝で地力を見せ突き放していた。

 翌73年はさらに熾烈な争いとなった。巨人は6月半ばまで5位に甘んじ、連覇は8でストップするかに見えた。しかし終盤に追い上げ、阪神とのつばぜり合いに。優勝の行方は10月22日、シーズン最終戦の直接対決にもつれ込んだが、巨人が9-0で大勝してV9を達成したのだった。この年、王が自身初の3冠王を獲得した。

 翌74年は、中日がドラフト組の星野、谷沢らの活躍で、巨人をゲーム差なしの僅差でかわし、ついに優勝。巨人のV10はならなかった。この年限りで長嶋が現役を引退し、川上監督も退任。時代の変わり目を迎えた。

戦力集中、傑出したONの存在、世代交代が成功した投手陣

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