「煤孫」「熊耳」「無徒」「赤見内」どれだけ読める? プロ野球“難読”選手たちの歴史

楽天・銀次【写真:荒川祐史】
楽天・銀次【写真:荒川祐史】

煤孫伝、戒能朶一、一言多十、赤根谷飛雄太郎

 プロ野球で1試合でも1軍の試合に出場した選手は7000人を超す。選手登録をした選手まで含めれば9000人に上ると推測される。この中には「なんて読むの?」と首をかしげるような「難読」の選手もいた。その中のいくつかを振り返っていく。読みは(苗字・名前)

○煤孫伝(すすまご・でん・つとう)
 岩手県出身の外野手、一塁手。日本大、仙台鉄道局から1937年大東京に入団。名前の読み方には「でん」「つとう」の2説がある。

○戒能朶一(かいのう・だいち)
 広島生まれ、明治大を中退し1938年秋、名古屋軍(のちの中日)に入団した内野手。戦死した。小島茂男、丹羽淑雄に次ぐドラゴンズ三代目の背番号「1」だった。

○一言多十(ひとこと・たじゅう)
 静岡県出身、島田商時代、甲子園で準優勝投手になった。専修大を経て1946年セネタース(急映・東映)入団。のち阪急で投げた。1946年4月29日、中部日本戦では13四球を与えながら勝利投手。これは1994年7月1日の西武戦で近鉄の野茂英雄が16与四球で勝利投手になるまでNPB記録だった。

○赤根谷飛雄太郎(あかねや・ひゅうたろう)
 秋田県出身の左腕投手。法政大から社会人を経て1948年急映(東急)に入団。漢字7文字はプロ野球選手の登録名で最長。漫画「巨人の星」の主人公「星飛雄馬」は、この選手から着想を得たと言われる。引退後は秋田商、秋田市立高の監督として活躍。

○熊耳武彦(くまがみ・たけひこ)
 宮城県出身、台北工業、コロムビアを経て1946年セネタース(急映・東映)に入団した捕手。1948年の急映には、一言、赤根谷、熊耳と難読3選手が在籍していた。

○丁銀隆(ちょうぎん・たかし)
 兵庫県出身、市立尼崎高から1953年近鉄に入団した捕手。1軍出場は1956年の1試合だけ。

○十時啓視(ととき・けいし)
 山口県出身。岩国高から1955年巨人に入団した左打の外野手。1960年に近鉄に移籍し、この年、101試合に出場している。

○朝樹一義世(あさき・かずきよ)
 静岡商から1960年大阪に入団した内野手。一時期は正三塁手だった。本名は朝井茂樹だが、1965年は「朝樹一義世」と登録名を改名。チームメイトは誰も読めなかった。この名前で4月11日の広島戦に出場したが、6月15日のサンケイ戦では元の朝井茂樹にもどった。わずか2か月余の登録名だった。のち広島に移籍。読みは「あさぎ・かずきよ」との説もある。

○交告弘利(こうけつ・ひろとし)
 岐阜県出身、岐阜短大付属高から1963年阪神に入団した左腕投手。5年在籍したが未勝利に終わった。

○忍全功(しのぶ・ぜんこう)
 奈良県出身、御所工から1966年1次ドラフト2位で大洋に。1軍出場のないまま太平洋に移籍。太平洋では主として三塁手として17試合に出場した。

楽天の銀次、フルネームは赤見内銀次、筒香は和歌山県橋本市周辺に約10人と言う極めて珍しい苗字

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