飯田哲也さん証言 全盛期の燕軍団は「どうやったら目立てるかをみんな考えていた」
厳格なイメージの野村克也監督が率いていたが…「何事も頭ごなしにダメということはない。懐が深い人でした」
ヤクルトスワローズの黄金期といえば、野村克也氏が指揮を執った1990年から98年までだろう。毎年のように優勝争いに絡み、リーグ優勝4回、日本一3回。強いだけでなく、おしゃれで明るく、いつも楽し気なムードを漂わせてプロ野球のファン層を広げることに貢献した。当時は俊足・強肩を誇る名外野手で、現在は野球評論の傍ら、母校の千葉・拓大紅陵高の非常勤コーチを務める飯田哲也さんが燕軍団の素顔を明かした。
「あの頃はホントにいい人たちが集まっていたというか、面白かったです。中心の古田(敦也)さん、池山(隆寛)さんが明るかったので、楽しい雰囲気が生まれたのだと思います」と懐かしそうに振り返る。
「前提として、野村監督という“王様”がいて、自分の役割をきっちりこなせる選手が多かった。僕は守備と走塁、土橋(勝征)はバットを短く持って小技を黙々とこなす、という風に駒がそろっていました。外国人選手もことごとく当たりましたし。チームとして結果が出るにしたがって、自信がついていきました。負けてて明るくはなれないですからね」と続けた。
はちゃめちゃなところもあった。「(石井)一久(投手=現楽天GM)なんて、先発する日の試合前もクラブハウスでファミスタとかやってましたもん。抑えの高津(臣吾=現ヤクルト監督)もやってましたね。将棋は、みんながやっていました。みんな、野球には集中していましたし、やるべきことがわかっているので、リラックスする時間を取るのもうまかったと思います」
当時の野村監督といえば厳格なイメージで、試合開始直前のテレビゲームなんてとても許しそうになかったが……「実は、野村さんは何事も頭ごなしにダメということはありませんでした。懐が深い人でした。ファミコンをしていれば、監督室にも『わーっ!』と騒ぐ声が聞こえていたはずで、知らなかったとは思えない。それでいて禁止になっていませんから」と飯田さんは証言する。