長男誕生翌日に衝撃の通告 大洋ドラ1が忘れられないオレンジジュースの味
三塁のレギュラーを獲得も、91年に広島へ移籍
三塁のレギュラーポジションを獲得したのは、古葉監督就任2年目の88年だった。古葉監督は広島監督時代にリーグ優勝4回・日本一3回を誇った名将。「古葉さんには、使っていただいたこともそうですが、本当にいい勉強をさせてもらったと感謝しています。当時の大洋は個性の強い選手が多く、大味な野球で、そこが一種の魅力にもなっていましたが、古葉さんは投手中心の緻密な野球を植え付けようとしていました」。
古葉監督は横浜大洋では在任3年で全てBクラス(5位、4位、6位)に終わったが、銚子さんは「89年には高卒2年目の野村弘樹を抜擢し、3勝11敗という散々な成績でしたが、目をつぶって使い続けました。高卒新人の谷繁元信も開幕から1軍にフル帯同させました。余程お金をかけない限り、チームは一朝一夕には強くなりません。チームが98年に38年ぶりのリーグ優勝・日本一を達成できたのも、古葉さんの頃からの下ごしらえがあったからこそだと思います」と言う。
銚子さんは主に2番サードで出場し、堅守を誇るとともに、88年に打率.271、89年には.281をマークした。ところが、90年に須藤豊監督が就任すると、状況は暗転する。「オープン戦で静岡に遠征した際に発熱。トレーナーには口止めをお願いしたのですが、首脳陣の耳に入ってしまって……。当時は、風邪をひくなんて自己管理ができていない証拠で言語道断、という風潮でした」。これをきっかけに出場機会は激減していった。
「その後、レギュラーが不振に陥り、僕にチャンスが回ってきたこともあったのですが、試合で三遊間のゴロを捕りにいった際、二塁走者と交錯して頸椎を捻挫して、モノにできませんでした。当時は(出場機会が減ったことを)『クソッ!』と思いましたが、いまは、いい勉強をさせていただいたと思っています」
そして、衝撃的な形でトレードを通告される。91年、沖縄・宜野湾での秋季キャンプ中、宿舎ホテルの監督室に呼ばれ、須藤監督から「広島へトレードが決まった。乾杯しよう。酒が飲めないのなら、ジュースでどうだ?」と告げられた。「須藤さんは酒がお好きですが、僕は下戸。冷蔵庫からオレンジジュースを出していただいて、注いでもらいました。実は、前日に長男(第1子)が生まれたばかりだったんですけどね……」
銚子さんは沖縄を離れると、妻が出産のために帰省していた大阪へ向かい、長男と初対面。思いがけず広島で、家族3人の新たな生活をスタートさせることになった。
次回は現役引退後の指導者修業、現況について語っていただく。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)