なぜユニホームに背番号が付いたのか? 選手のステータスを象徴する深い歴史

巨人がアメリカ遠征に行った際は漢字の背番号でユニホームを着用も…

 また1931年の日米野球でも、日本代表選手は背番号をつけてプレーした。1935年、設立間もない東京巨人軍は、アメリカに遠征したが、このときは日本らしさを出そうと漢字の背番号のユニホームを着用した。しかし漢字がわからないアメリカでは「あのプラス(+)の背番号の選手はどこを守っているのだ」と言われたという。

 選手の永久欠番はMLBでは、1939年、ヤンキースの大打者ルー・ゲーリッグが不治の病によって引退を余儀なくされたときに「4」が、永久欠番(retired number)になったのが始まりだ。偶然にも、日本での最初の永久欠番も「4」だった。1947年、現役中に病死した巨人の黒沢俊夫の「4」が、戦死した沢村栄治の「14」とともに永久欠番になった。

 以後、球団に多大な貢献をした選手の背番号が、球団の判断で永久欠番になった。MLBでは、複数のチームで活躍した選手が、それぞれのチームで永久欠番になっているケースがある。ノーラン・ライアンはエンゼルスの「30」、アストロズ、レンジャーズの「34」と3球団で永久欠番になっている。

 MLBでは、選手の移籍が激しいため、シーズン中に何人もの選手が同じ背番号をつけることがある。そのため選手の識別をするのが難しかった。1960年にはシカゴ・ホワイトソックスが背番号に加えて「選手名」も背中につける“背ネーム”のようになった。NPBでも、1964年に大洋ホエールズが「背ネーム」を導入した。

「背ネーム」はファンに好評で、日米ともに広がっていったが、MLBではヤンキースやジャイアンツのように現在も「背ネーム」を導入していないチームもある。また「背ネーム」は選手が入れ替わるたびに作る必要があり、コスト高になるため、アメリカではマイナーリーグのユニホームには付けられていない。

ジャッキー・ロビンソンを称え背番号「42」が全球団の永久欠番に

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