球史に残る名外野手は“投手落第”で生まれた 昭和の「常識」覆す守備で9度のGG賞

当たり前だとされていた左足の前での捕球に違和感を覚え、右足前の“平野式”に

 他の外野手に混じってノックを受ける日々。「守るのは好きでしたから。自信はありました」。捕球から送球、捕球から送球……。繰り返しの中で、平野氏はひとつの違和感を覚えた。左足を前に出した姿勢で捕球し、送球に繋げるのが当たり前だとされていたが「足は右足が前の方が捕りやすい。(投げるまで)2歩は違う」。当時2軍コーチだった井出峻・現東大野球部監督から「逆だぞ」と言われても、確信があった。「左足が前だと膝が突っ掛かるし、ボールから目が離れることが多くなる」。捕ってからの速さを示してみせ、周囲を納得させた。

 たった2歩でも、外野手にとっては生死をも分ける。「5メートルくらいは違うんじゃないですかね」。当然、走者に与えるプレッシャーは大きくなる。いつしか“平野式”は主流となり、チームメートだった彦野利勝氏ら後輩から教えを請われることも多かった。「今では、どっちかというと右足前が主流になっていますよね」。平野氏は胸を張る。

 1軍に定着した1982年、初めてゴールデングラブ賞(1972~85年まではダイヤモンドグラブ賞)に輝いた。以降は1985、86年と2年連続で獲得し、西武に移籍した1988年からは6年連続で受賞。秋山幸二と鉄壁の右中間を形成し、黄金時代のチームを支えた。プロ人生の活路を見出した外野で、自らを貫いて掴んだ名手の称号。「自分のやり方が認められなかったら、ゲームに出られなかっただけでしょう。でも、それを変えるつもりもなかったし、受け止めてくれるコーチでした」。数えきれないほどの好守は、いまもファンの胸に刻まれている。

(小西亮 / Ryo Konishi)

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