“先発失格”から幕張の防波堤に 元ロッテ小林雅英氏の転機となった、無死満塁の大ピンチ

がむしゃらに1個のアウトを取りにいくのが「僕のスタイル」

 こうして同年4月25日、野球人生の転機となる中継ぎ転向後初登板を迎えた。茨城・ひたちなかで行われた日本ハム戦だ。試合中盤、無死満塁の大ピンチで突然登板を命じられる。

「もうがむしゃらに、開き直って投げるしかありませんでした。アドレナリンが出まくりました」という精神状態が功を奏した。田中幸雄氏を三振、上田佳範氏(現・DeNA外野守備走塁コーチ)を併殺打に仕留め、無失点で切り抜けた。「その時、自分は配球で恰好よく打者を抑えるタイプではない、その時の100%のボール投げ込み、がむしゃらに1個のアウトを取りにいくのが僕のスタイルだと気付きました」と深く頷く。

 中継ぎで快投を続け、同年8月17日の日本ハム戦では、ついに不振の守護神ウォーレンに代わってクローザーを務めプロ初セーブ。以後、抑えに定着した。“幕張の防波堤”の完成である。

 小林氏は今、あの中継ぎ転向後初登板が無死満塁でなかったら、その後の輝かしい活躍はなかったかもしれないと考えている。

「イニングの頭から余裕を持って登板していたら、逆にヒットを打たれてパニくって、うまくいかなかった気がします。自分のスタイルをつかめずじまいだったかもしれません」。そんな過酷な場面で投入した山本監督の真意を、もはや確認することはできない。「意図があって、あえてあの場面で投入したのか、それともたまたまだったのか、天国に行かれた今となってはわかりません。いずれにしても、今の僕があるのは功児さんのおかげで、頭が上がりません」と亡き恩人に思いを馳せる。

 ロッテで9年間、インディアンスで2年間活躍後、巨人とオリックスに1年ずつ在籍し、2011年限りで現役を引退した。日米通算530試合に登板したが、先発はロッテ1、2年目の計13試合のみ。40勝39敗234セーブ。リリーフに徹したプロ野球人生だった。

 一流の先発投手は、試合中に“ギアを上げる”ことができる。普段は140キロそこそこの球速に抑えていて、ピンチになると別人のように150キロ超を連発し得点を許さないタイプだ。

「僕にはそれができませんでした。常に100%で投げることしかできない」と苦笑する小林氏。調整法も、先発ローテ要員として登板日に向け1週間かけて準備するのは苦手だった。リリーフは毎試合登板の可能性があり、ブルペンで肩を作らなければならないが、性に合っていた。「僕は“発表会”のように、時間をかけて準備するというのは嫌い。毎日、朝起きて自分の体調をみながら準備するという、短いスパンの繰り返しの方が向いていました」と笑う。

 生まれながらのリリーバーといえるかもしれない。そんな自分の本質に気付かせてくれたのが、無死満塁の大ピンチだったのだ。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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