“哲のカーテン”、V9、江夏の21球…球史の裏に隠された「サイン」進化の歴史

1954年「ドジャースの戦法」刊行から複雑なブロックサインが主流に

 アメリカでアル・キャンパニス著「ドジャースの戦法」が刊行されたのは1954年。のちに巨人がこの本を参考にチーム作りをしたことは有名だが、三原監督もこの本を参考にして複雑なサインを編み出したという。巨人がこの「ドジャースの戦法」を下敷きにして複雑なブロックサインを編み出したのは1961年のこと。この年の春季キャンプでは報道陣を規制し、別所毅彦コーチとこの年から加入した牧野茂コーチがブロックサインや細かな戦術を徹底的に選手に教えた。メディアはこの報道規制を「哲のカーテン」と呼んだ。

 当時の巨人は、長嶋茂雄こそいたものの、王貞治はブレーク前。投手陣も戦力的には下り坂で、川上コーチは「弱小球団でも勝てる戦術を編み出す必要がある」と考えていた。川上哲治が監督に就任した1965年から巨人は空前のV9を達成するが、ブロックサインを中心とした細かな戦術が果たした役割は大きかった。

 ただ、そんな中でも長嶋茂雄にだけは帽子に触ればエンドランなどの昔ながらのフラッシュサインが使われていたという。1打席に集中する長嶋はサインの見逃しが多く「チョンボのチョーさん」といわれていた。川上監督も長嶋だけは特別扱いだった。この点、同じ背番号「3」の大打者、大下弘と通じるところがある。

 V9時期にはNPBの全球団がブロックサインを用いるように。以後のプロ野球は各球団が高度なサインを駆使する「情報戦」になっていった。特に投手の球種は重要な“機密”となり、これを見破られないために「乱数表」も用いられるようになった。投手がグラブに貼り付けた乱数表を見て捕手のサインを理解するというものだが、バッテリーのやり取りに時間がかかるという理由で1983年に中止された。

近鉄の西本幸雄監督が「サインミスだった」と振り返る「江夏の21球」

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY