パ創設初年度に起きた「放棄試合」とは? 鶴岡監督が納得できなかった際どい判定

「没収試合」を伝えた日刊スポーツの紙面【画像提供:日刊スポーツ】
「没収試合」を伝えた日刊スポーツの紙面【画像提供:日刊スポーツ】

猛抗議の背景にあったものとは?

 井上さんがまず触れたのは、この試合の詳細な状況だ。まずは、塁審の判定の曖昧さに問題があったようだ。

「中堅手がボールをキャッチする時によろめいたらしいのです。しかも砂埃が立っていたので審判からもよく見えなかった。そのため、最初にアウトのような仕草をした後にセーフへと訂正したようです。さらに、球審かあるいはお客さんの『こぼした!』というような会話を耳にした塁審が、訂正してセーフという判定を下した、という当時の記述も残っています。また、当時は現在のように審判の人数は4人で固定されていませんでした。この試合の審判の人数は3人で、球審と、一塁、三塁に塁審が2人。2塁、センター方向はいちばん手薄なエリアであり、鶴岡監督も別の記事で、「審判(塁審)は3人にすべき」と語っています。

 鶴岡監督も、後の資料では「審判が見るべき位置に行って確信のある判定を下せば、それに対して抗議は一応あったにしても放棄試合をするとまではならなかっただろう」とコメントしているとのことである。

 さらに井上さんが指摘したのは、鶴岡監督が「選手兼任」であったという点だ。70年前は戦後間もないということもあり、人材不足などの理由から選手兼任監督を置くことが少なくはなかったという。鶴岡一人監督という名前であれば、長年のファンであれば心当たりのある方もいるのではないだろうか。23年間にわたって南海の監督を務め、歴代最多の通算1773勝を記録(優勝11回・日本一3回)。勝率.609と驚異的な実績を残しており、まさにプロ野球の「監督」というポジションにおける伝説的存在だ。

「鶴岡さんは1952年まで選手兼任監督でしたので、1950年当時はまだ選手としてもプレーしており、この試合でも4番セカンドで出場していますね。それこそセカンドなので、センターがフライをキャッチするところはよく見えていたと思います」

鶴岡監督は選手として兼任監督期間で打点王を1回、MVPを3回獲得

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