野村監督は「僕の人生を変えてくれた」 “愛弟子”飯田哲也氏が野村ノートを開く時
今年2月に亡くなったヤクルト在籍時の監督、コンバートで開花
ヤクルトなどで活躍し、昨季までソフトバンクの3軍外野守備走塁コーチだった飯田哲也氏の自宅には大切にしまっている4冊のノートがある。ヤクルト黄金期のミーティングで野村克也監督から教わった野球の緻密さ、プレーの選択肢、時には生きるヒントまで書いてある宝物だ。
飯田氏は1986年ドラフト4位で捕手としてヤクルト入り。野村監督のもとで捕手から内野、外野とコンバートされ、1991年に中堅手に定着した。同年から7年連続ゴールデングラブ賞を受賞、1992年に盗塁王とベストナインに輝くなどヤクルトの黄金期を支えた。
「就任当時、『何でアイツが捕手をやっているんだ』と野村監督はコーチに言ったようです。僕の足を見てくれていた。監督の考えでは立ったり、座ったりを繰り返す捕手の足は衰えていく、と。僕はプロに入って、一流の捕手になることしか頭になかった。捕手で成功しなかったら、プロ野球選手じゃなくなると思っていたので、コンバートは考えてもいなかったので驚きました」
飯田氏はID野球の申し子として、事細かく野球を教わった。フライを打てば怒られた。変化球を引っ掛けて内野ゴロを打っても怒鳴られた。守備や走塁のことで怒られたことはない。いつも打撃のことばかり、注意された。
「ある時は『阪神の和田(豊)のバッティングをよく見ておけ』と言われたことがありました。見ているだけじゃわからないので、千葉の高校の先輩(和田氏は我孫子高、飯田氏は拓大紅陵)だったということもあり、直接、聞きに行きましたね」
和田氏は右方向へ打つのが秀逸だった。内角球でもセンターから右方向へ打ち返していた。飯田氏は「内角をどういう意識で、右に打っているのですか?」と聞くと、少し体を開き気味にステップし、ちょっと遠く感じるようにして打つイメージと教わった。
「イメージも感覚もだいぶ変わりました。和田さんは本当に引っ張りませんでしたから」