鈍足の小学時代、退学寸前の高校時代…“ハマの番長”DeNA三浦新監督が成り上がるまで

出身地の橿原市長とオンラインで対談した三浦大輔監督【写真提供:横浜DeNAベイスターズ】
出身地の橿原市長とオンラインで対談した三浦大輔監督【写真提供:横浜DeNAベイスターズ】

小3の時に少年野球チームに所属「1、2を争うくらい足が遅かった」

 今季からDeNAの指揮を執る三浦大輔監督が21日、出身地・奈良県橿原市の亀田忠彦市長とのオンラインで対談した。その後の記者会見では、自身の不遇のアマチュア時代を回顧。尊敬するアーティストの矢沢永吉ばりに“成り上がる”以前の原風景を懐かしんだ。

 同市で生まれ、高校卒業までの18年間を過ごした三浦監督。トレードマークのリーゼントを決めてノートパソコンの前に座ると、亀田市長の質問に答える形で、「僕はプロ野球選手にはなれましたが、子どもの頃からずば抜けてうまかったわけではなかった」と語り始めた。小学3年の時に少年野球チームに所属したが、「チームで1、2を争うくらい足が遅かった」と言うほどだ。

 プロになるような選手は、「子どもの頃からエースで4番」のタイプが多いが、三浦はそうではなかったようだ。「当時から『プロ野球選手になりたいな』とは思っていたが、遠い空の上を見ているように現実味がなかった」と語る。

 それでも「仲間と一緒に野球をやれるのは楽しかった。練習はしんどくて嫌いだったけれど、試合で打ったヒット1本、1つの勝利の喜びを仲間と分かち合えたことが1番の思い出。チームも強くはなかったが、一生懸命やって、一緒に弁当を食べたりするのも楽しかった」。家に帰れば、部屋に寝転び、真ん中にマジックペンで線を引いたボールを天井へ向かって投げ、回転を確認するのが日課だった。「天井に当たるか当たらないかで、微妙な指先の感覚を養うこともできた」と振り返る。

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