MLB挑戦が「失敗だったと言われてもいい」 五十嵐亮太氏の“苦しかった”3年間

ヤクルトなどで活躍した五十嵐亮太氏【写真:荒川祐史】
ヤクルトなどで活躍した五十嵐亮太氏【写真:荒川祐史】

納得がいくように積極的に動いた3年目「すごくワガママにやらせてもらった」

 新たな環境に順応しなければいけないことも、そこで結果を出さなければいけないことも、もちろん渡米前から分かっていたことだ。技術面で苦しむことも予想していたが、「思っていた以上に苦しかった」と振り返る。

「刺激を受けながら、結果を残すためにどうするか。なかなか自分の思い通りの結果が出なかった時、こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか、というくらい向き合いましたね。日本でも向き合ってはいたけれど、その比にならないくらい、ずっと野球のことを考えていました。自分の思いを英語で伝えられない環境だったから、自問自答を繰り返す。多分、人生で一番頭が回転した時でしたね。

 僕は環境は大事だと思っています。例えば、持ち球を増やそうとなった時、日本でも一通り練習したけど、結局モノにできなかった。そこで『きっと自分のフォームに合わない球種だったんだな』って自分を納得させる諦めの言葉を見つけていたんですよね。でも、アメリカではそんなことは言っていられないから必死で覚えました。やらざるを得ない状況に追い込まれたら、人はできるようになるんです。

 渡米した時、成功するイメージは持ちながら、同時に難しいだろうなと思う気持ちもありました。難しいけど、環境が変わって自分がやらざるを得ない状況になればやるというのも、どこかで気付いていた。ある程度、想定はできていたんですよ。でも、思った以上に苦しかったし、辛かった。結果的にはプラスの経験になるんだけど、その時は必死でしたね」

 必死でもがき、道を切り拓こうとしたのが3年目、2012年のことだった。メッツとの2年契約が終わり、パイレーツとマイナー契約。招待選手としてメジャーのスプリングトレーニングに参加したが、開幕メジャーは勝ち取れず、チャンスを求めてブルージェイズへ移籍した。開幕こそ3Aで迎えたが、5月にメジャー昇格。だが、2試合で4失点すると40人枠から外され、今度はヤンキースへ移籍。3度メジャー昇格したが、シーズンの大半を3Aで過ごした。

「メッツでは複数年契約でレールの上に乗っていた感じだったけど、3年目は自分で切り拓こうと意見をしっかり言いました。メジャー昇格のチャンスがあるチームに行きたいとブルージェイズに行ったら、3Aで成績を残しても全然上げてくれない。メジャーの選手が調子よければ仕方ない話。でも、気持ちはイケイケだったので『俺の方が力があるから早く上げてくれ』って言いました。多分、GMは困っていたと思います(笑)。いざメジャーに上がったら結果が出ずにマイナー行き。シーズン中で声が掛からない可能性もあったけど、また違うチームを探そうとなり、幸いヤンキースが拾ってくれた。

 かなりドタバタしたけど、自分からドタバタしにいった感じですね。契約先が見つからなくて消えるにしても、誰かに消されるのか、自分から消えるのか。そこは自分でコントロールしたかった。自分が納得いくようにしたいと思って、ものすごくアクティブに動きました。あの時間は本当に貴重でしたし、すごくワガママにやらせてもらいました」

メジャー移籍は「失敗と言われてもいい」大切なのは失敗を次に生かせるか

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