日米球界の架け橋になった日系人 生誕100年迎えMLB公式サイトが称賛「なんてキャリアだ」

かつて日米野球界の架け橋として活躍した日系米国人が生誕100年を迎えた【写真:Getty Images】
かつて日米野球界の架け橋として活躍した日系米国人が生誕100年を迎えた【写真:Getty Images】

キャピー原田氏は1949年に戦後初の日米野球を実現させた

 エンゼルス大谷翔平投手が投打二刀流でメジャーリーグに衝撃を与えた2021年、かつて日米野球界の架け橋として活躍した日系米国人が生誕100年を迎えた。キャピー原田氏は戦後、日米親善野球の開催を実現させるなど、第2次大戦後の日本野球の発展に尽力した。MLB公式サイトは特集記事を掲載して功績を称えている。

 国際関係はMLBの発展に常に大きな役割を果たしてきた。世界中から選手が集まり、北米以外でも公式戦が開催されている現代だが、このような進歩は数十年前に始まっていた。立役者の一人が、今年10月16日に生誕100年を迎えたツネオ・ポール・ハラダ氏。“Cappy(キャピー)”の愛称で親しまれた日系米国人はMLBと日本のプロ野球の架け橋となった。

 原田氏は1921年10月16日に米カリフォルニア州サンタマリアで生まれ、野球選手を夢見ていた。セミプロでプレーし、カージナルスからスカウトされていたが、戦争中に負傷し、夢が断たれた。第2次世界大戦中は米軍諜報機関の一員として活動。終戦後、日本で野球を再開させるために連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー最高司令官に雇われた。目的は戦争に敗れた日本人の士気高揚。マッカーサーは日本人が野球を愛していることを知っていた。

 1949年には元メジャーリーガーのレフティ・オドールが率いるサンフランコ・シールズの来日に尽力。日本のプロ野球との親善試合を実現させた。戦後初の日米野球だったこのシリーズは両国の友好を深める功績があった。その後は1951年から1954年に巨人監督のスペシャルアシスタントとして4年連続日本一に貢献。1954年には、既に引退してマリリン・モンローとハネムーン中だったジョー・ディマジオの来日にもかかわったという。

日本勢初のメジャーリーガー、村上雅則の契約にも尽力

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