仰木監督から「もう辞めろ」…2000安打が引退の合図 近鉄移籍で果たした完全復活

中西太氏からの打撃指導が転機となり、35歳の1987年に打率.366で自身初の首位打者を獲得

 南海時代の終盤は力の出し方を間違って悪循環に陥っていたが、この一言が打撃フォームを見直すきっかけとなった。クローズになっていた右足をオープン気味に変更。体の捻りを抑え、最短距離でバットをボールにぶつけるスイングを作り上げていった。

 環境の変化もプラスになった。南海時代は和歌山・田辺、広島・呉でキャンプを行っていたが、近鉄はサイパンと宮崎・日向だった。「体が動くようにもなったし、体調面でも良くなった。開幕前の体を作るキャンプ地の違いも近鉄で活躍できるようになった一つの要因だと思っています」。肩を痛めていた新井氏にとって温暖な場所で調整できたのも大きかった。

 移籍1年目の1986年は全130試合に出場して打率.288、34歳にしてプロ入り初の2桁本塁打(12本)をマーク。さらに、翌1987年には打率.366で首位打者、184安打を放って最多安打(当時は連盟表彰無し)を獲得するなど完全復活を果たした。

 1988年からはヘッドコーチを務めていた仰木氏が岡本伊三美監督に代わり、新監督に就任。大石大二郎氏との1、2番コンビは他球団の脅威となっていた。「自分の個性を生かせるように。1番の大石とノーサインだった。得点、チャンス広げ、中軸が打点を挙げるためにと。近鉄の7年間はほぼノーサインだった」と新井氏は明かす。

2000安打を放った直後に現役引退を勧告される「もう辞めろ、いいんじゃないか」

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