仰木監督と打順を巡り衝突 指導の転機となった“右のイチロー”の起用法

1999年8月、イチローが右手に死球を受け、残りシーズンを欠場

 プロ初年度の1997年、沖縄・宮古島の春季キャンプではイチローと同じ組で打撃練習を行わせるなど“英才教育”を施して来たるシーズンに向けて準備を進めた。同年は開幕スタメンこそ逃すが、101試合に出場し打率.272、1本塁打33打点の成績を残し、翌1998年からはレギュラーの座を獲得。12球団No1とも言われた「左翼・田口、中堅・谷、右翼・イチロー」の外野布陣を形成することに成功した。

 だが、1999年8月にチームをアクシデントが襲う。1994年から763試合連続出場を続けていたイチローが右手に死球を受け、残りシーズンを欠場することに。主に3番を務めていた中心打者を失うと、仰木監督から新井氏は「誰を3番で使えばいいと思う?」とオーダー案を求められた。

 そこで新井氏はプロ3年目を迎え、広角に打ち分けることができて得点圏でも犠飛を打てる打撃技術を兼ね備えていた谷を推薦。しかし、「イチローと似ていて、自ら仕掛け初球からバットをしっかり振りきれるタイプ」だったという谷はシュートや、打ってもゴロになるボール球の変化球を自ら打ちにいき、外野に打球が飛ばない状況が続いた。

 思ったように得点できない打順の流れに仰木監督も徐々に苛立ち「お前が3番にしろ、というから使った。だが、何だこの結果は?」と激怒。しかし、新井氏にも言い分はあった。得点圏に走者がいる場合には、谷に「シュートに手を出すな」と伝えており「言われた時は仰木さんにもカチンときましたし、谷にもコーチを殺すつもりかと(笑)」。

「選手ができてないことは指導していないことと同じ」

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