監督命令の打者転向は「嫌々だった」 指導者は不在…絶望から2000安打放った奇跡

巨人のV9に貢献した柴田勲氏【写真:清水しんや】
巨人のV9に貢献した柴田勲氏【写真:清水しんや】

川上監督の想定超える成長で守備位置変更 プロ1、2号は左打席

 日本のスイッチヒッターで初めて通算2000安打に到達、セ・リーグ歴代最多盗塁もマークして巨人の9連覇を支えた柴田勲氏。スタートはプロ1年目の夏に投手から野手、それも両打ちへの転向指令だった。「海の物とも山の物ともつかない感じでした」と振り返るが、翌年7月にはオールスター戦に外野手部門ファン投票1位で出場し、大活躍した。驚くべきスピードでの変身はいかにして成ったのか。

「バッターをやるとかスイッチで成功するとかよりも、ピッチャーはもう無理なのか、駄目なのかという気持ちの方が強かった。肩さえ状態が良かったら、10勝やそこらはできるだけの自信があったので。嫌々でしたよ」

 1962年8月。まだ18歳の柴田氏にとって川上哲治監督の宣告は、青春の蹉跌と言えた。神奈川・法政二高で甲子園2度優勝の金看板を掲げて入団し、開幕シリーズで先発登板。順風満帆のはずだったが、右肩の不調が続き、高校時代の球威、球速が戻ることなく結果が出ない。そこで、あまりにも早い進路変更にショックは大きかった。

「でも僕たちの頃は、監督が絶対ですから」。すぐに切り替えるしかない。我に返った柴田氏だが、ある意味当然の難題が待ち構えていることに気付いた。日本球界で本格的なスイッチ挑戦は初めて。選手も指導者も経験者がいるわけもない。

「どうすればいいんですか」と川上監督に尋ねても、「いやあ、右でも左でも打ちゃあいいんだ」と緻密な野球が売り物の指揮官らしからぬ答え。おまけに2軍は球団の事情もあり、武宮敏明寮長が監督に走攻守、投手コーチの役割を全部1人で兼務していたという。「バッティングのコーチが誰もいないんですよ」。

 柴田氏は右打ち。左は中学時代に「遊びで1か月間」やったことがある程度。まずは箸や急須の使用などの日常生活を3か月にわたり左で行ってみたものの、「御飯が全然美味しくなかった」と冗談交じりに苦笑する。「左も器用になればいいのかなと考えたんだけれど、全く関係ありませんでした。結局はバットを振るしかなかったですね。素振り、あとは来たボールをポーンと打つだけ」。最初の2か月は左打席でしか練習しなかった。

 左打席をどう形作ったのか。川上監督から「日本のモーリー・ウィルスになれ」と言われても存在自体を知らない。映像など米国の資料が簡単には手に入らない時代だ。大リーグ情報に精通する牧野茂コーチからドジャースで俊足を生かす両打ち選手とだけ教わった。それを参考に「バットを一握り短く持った。それぐらいかな、変えたのは」。

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