応急処置で着けた赤手袋が“代名詞”に V9戦士・柴田勲氏が偶然出会った「女性用」

“赤い手袋”が代名詞だった巨人・柴田勲氏【写真:共同通信社】
“赤い手袋”が代名詞だった巨人・柴田勲氏【写真:共同通信社】

1967年米キャンプで手のひらから出血…女性用の手袋がピッタリだった

 巨人の9連覇に大きく貢献した柴田勲氏。日本で初めてスイッチヒッターとして通算2000安打を達成し、セ・リーグ最多の579盗塁をマークした華麗なプレースタイルをより強く印象付けたのが、代名詞となった“赤い手袋”。柴田氏が着け始めた頃、プロ野球で手袋をする選手は見当たらなかった。色も派手な赤。きっかけは何だったのか。

「あの時、血が出てなかったら……僕は手袋をしていなかったですね。それにもし置いてあった手袋の色が黄色や青だったら“黄色い手袋”“青い手袋”と呼ばれたかもしれません。赤で良かった」。柴田氏は自身を彩った“相棒”との不思議な遭遇に感謝する。

「あの時」とは1967年に米フロリダ州ベロビーチで、ドジャースと合同で実施した春季キャンプでのこと。前年に初の盗塁王を獲得した柴田氏だが、体が硬く、フックスライディングしかできなかった。川上哲治監督が進化を促すべくドジャースのコーチに走塁の指導を依頼すると、ヘッドスライディングの練習をさせられた。

「自分は高校時代までずっとピッチャーでしたし、ヘッドスライディングなんて生まれて1回もやったことがない。ポーンと滑ったら、両方の手のひらを擦りむいた。怪我みたいなもんです。バーッと血が流れました」

 その日はナイターの予定。海外キャンプで日本から派遣された外野手もぎりぎりの人数に絞り込まれており、欠場できない。絆創膏を貼ったが、バットを握ると手が滑る。当時、米国でも手袋を着用する選手はいなかった。「それならば、ゴルフの手袋でもしたらどうだろうと思いついたんです。宿舎のすぐ脇がゴルフ場だったので」。

 ショップに行っても事はすんなり運ばない。「ゴルフの手袋だから片一方しかない。外国人の手だから大き過ぎる。困りました」。半ば諦めた帰り際、光が差した。「ちょっと見たら、レディースコーナーがありました。数は本当に少なかったのですが、赤い両手の手袋が置いてある。試しにはめるとピッタリ。でも、色が赤で目立つな……と考えたけれど、日本じゃないから関係ないと買いました」。サイズは23センチと記憶している。

日本球界で手袋を着けたパイオニア…1967年の70盗塁で評判に

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