マスコミ欺き続けた“両投げ”の代償 異様な注目が招いた酷使…開幕直後に迎えた限界

南海時代の近田豊年氏【写真:本人提供】
南海時代の近田豊年氏【写真:本人提供】

メインは左投げ…右投げは「メディアがいる時だけ」と申し渡された

 右でも左でも投げる“スイッチピッチャー”として話題を呼んだ近田豊年氏は、南海入団1年目の1988年4月に1軍デビューを果たした。左右どちらでも使用可能な“6本指グラブ”を使ってマウンドに上がったが、見せたのは左投げのみ。実際、メインはオーバースローの左だったのだから当然だったが、そこに至るまでにはいろいろなことが……。両投げへの注目度は半端ではなく、極秘裏に“特別対応”も取っていたという。

 入団テストでは左投げだけでなく、右投げもアピールして合格。スイッチピッチャーとして注目を集めた近田氏は、とにかく必死に練習した。なにしろ、どこに行ってもマスコミにマークされる日々。手を抜くことなど、できるわけもなかった。そのかいあって呉での1軍キャンプ切符もつかんだ。「背番号は最初63番だったんですが、キャンプの途中で13番に変わりました。63番は2週間くらいしかつけてなかったと思います」。それも期待の表れだった。

 もちろん、スイッチピッチャーとして“活動”した。でも自信があるのは左投げの方だった。首脳陣の見方も同じだったが、騒がれている以上、もはや右を見せないわけにはいかない。そこで杉浦忠監督からこんな指令が出た。「『両方で投げるのはメディアが来ている時だけでいいよ』って言われました」。大勢の報道陣やテレビカメラが回っている時の練習では意図的に右のアンダースローと左のオーバースローを織り交ぜて、汗を流す“作戦”を展開していたのだ。

 メディアが少ない時は左投げに専念。「監督からは『左が力あるから、普段はそっち中心に練習するように』と言われていました」とのこと。そんな中、紅白戦で“左右投げ”の機会が1、2度あったという。「その時はメディア用のつもりではなく、自分なりに考えてやったんですが、まぐれで抑えたんですよ」。それでも杉浦監督らがアンダースローの右を評価することはなかった。「圧倒的に左の方がスピードがあったからだと思います」。

開幕1軍も…左投げだけで臨んだ初登板は1失点で即2軍落ち

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