2位指名にブチ切れ「もう来ないでください」 入団拒否の大投手落とした“猛口説き”

星稜高時代の小松辰雄氏【写真:共同通信社】
星稜高時代の小松辰雄氏【写真:共同通信社】

星稜高プロ1号の小松辰雄氏、1977年ドラフトで中日から指名も…

 1977年11月22日のプロ野球ドラフト会議で、石川・星稜高の小松辰雄投手は中日から2位指名されたが、憤慨しきりだった。1位ではなかったのが気に入らなかった。その夜、スカウトからの電話に「大学に行って、1位に指名される選手になるので、もう来ないでください」と拒否の姿勢を打ち出した。中日側はなだめにかかったが、気持ちは収まらない。翌日、学校で星稜・山下智茂監督にも「駒沢大学に行きます」と宣言したという。

 小松氏は子どもの頃から巨人ファンだった。「あの頃、田舎は巨人戦しか中継がなかったしね」。王貞治氏や長嶋茂雄氏に憧れた。「プロは巨人か中日ならいいなって思っていた。中日は(北陸から)近かったからね。だから中日で良かったんだけど、2位だったのが面白くなかった。それで中日を断って、駒沢に行くって言っちゃった」。山下監督は駒大・太田誠監督に連絡を入れた。「太田さんはすぐに金沢まで来られて『じゃあ一緒にやるぞ』って言われた」。

 流れは完全に駒大進学になったが、そこから中日が巻き返しにかかった。敏腕の法元英明スカウトが挨拶にきて、2位指名のいきさつを説明した。当時のドラフト会議は12球団がまず予備抽選を行い、1位はその1番くじの球団から指名していく。2位は12番くじの球団から逆回りで指名、以下3位は1番くじから、4位は12番くじからと言う具合に進行していくシステムだった。

 その年の中日は12番くじを引き、全体12番目の1位を日本鉱業佐賀関の藤沢公也投手、続いて13番目となる2位に小松投手を指名した。よって、どちらを先に指名するかの差だったわけだが、藤沢氏は過去のドラフトで4回もプロを拒否した選手だったため、1位なら来てくれるだろうと判断して優先。実質、小松氏も1位みたいなものだった。ちなみに藤沢氏は翌1978年シーズン終了後に入団となった。

敏腕・法元スカウトの猛口説き「親身になって俺のことを考えてくれた」

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