自腹指令でヤケクソの贅沢渡米「頭にきた」 朝までデニーズで激論…大恩人への感謝

元中日・山本昌氏【写真:荒川祐史】
元中日・山本昌氏【写真:荒川祐史】

2年連続で米国修行…監督指令も往復交通費は“自腹”だった

 50歳まで現役を続け、NPB通算219勝をあげたレジェンド左腕・山本昌氏の恩人・アイク生原さんは1992年10月26日に胃がんのため亡くなった。まだ55歳の若さだった。ドジャースの会長補佐などを務め、メジャーリーグと日本球界の橋渡しをはじめ、日米の野球交流に尽力した。山本氏は1988年の米国留学中、アイクさんのおかげで成長を遂げた。翌1989年もシーズン後の米国修行でカーブ習得に力を貸してくれた。

 プロ6年目の1989年9月23日の阪神戦(甲子園)で山本氏はシーズン4度目の10勝チャレンジも白星をつかめず、星野監督指令で米国行きとなった。すでに中日2軍が教育リーグで先に行っており、そこに合流する形だった。だが、行ってこいと言われて行くのに、往復の航空機代は自腹で、とのことだった。もちろん、他の2軍の選手は球団持ちで、そんなことはない。

「(1軍の試合で)賞金も出ていたし、ってことでしょう。星野さんらしいよね。でも、あの時は頭にきてビジネスクラスを買った。フロリダまでの往復で100万近くかかったかなぁ。帰りもコーチ陣に混じって堂々とビジネスでね。だって自分で買ったんだからね」

 2度目の米国修行。「着いたのは夜の11時半頃。空港までアイクさんが迎えに来てくれた。そのまま一緒にデニーズに行って、朝までしゃべった。その時、言われたのが『ヤマ! ちゃんとしたカーブを覚えよう』だったんです」。そこから毎日、カーブの練習だった。今までのカーブとは違う握りで投げ方も教わった。

アイク生原さんは1992年に死去、山本昌氏は翌93年に最多勝に輝いた

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY