「飲みながらだもん」入団拒否を覆した“宴席交渉” まさかの来襲に「返事しちゃった」

中日で活躍した鈴木孝政氏【写真:共同通信社】
中日で活躍した鈴木孝政氏【写真:共同通信社】

鈴木孝政氏は全体2番目の中日ドラ1…在京球団以外なら明大進学の予定だった

 1972年11月21日、東京・日比谷日生会館で行われたプロ野球ドラフト会議で成東高の右腕・鈴木孝政投手は全体2番目で中日にドラフト1位指名された。当時は入札制ではなく、1球団ずつの指名。「(成東の)松戸監督にどこかが1位で来るぞとは言われていたけど、まさか(全体)2番目で来るとは思わなかった」。同時にこれで明大に進学すると思ったそうだ。明大・島岡吉郎監督と「在京球団以外なら明大」と約束していたからだ。

 ドラフト前に西鉄と阪急以外の10球団が挨拶に来た。どこの球団も“お土産”にボール5ダースくらいを持参した。「みんな中古品だったけど、ドラゴンズだけ真っ白なニューボールを持ってきた。ドラゴンズと書いてある練習ボール。それは何か覚えているね。その時は行こうなんて思ってなかったけどね」。在京球団以外のプロ入りは考えていなかった。その場合は明大進学。「島岡さんがマネジャーと一緒に学校まで来られた時に約束した」という。

 実は本当の希望は早大進学だった。高校の先輩で、現役時代は阪神でプレーし、引退後は阪神、オリックスの監督も務めた中村勝広氏がそうだったように「成東、早稲田のラインもあったからね」という。「でも島岡さんが来られたし、今後のこともあるので、部長や監督も明治を受けてくれってなった」。夏休みの8月にセレクションに参加し、合格していた。ドラフトで中日に1位指名されても、当初は明大進学の流れだった。

「ドラフトの日は学校中が大騒ぎだった。どこですか、どこですかってね」。中日指名後、校長室で記者会見を開いたが、中日も、全体2番目の指名も想定していなかった。「高校生では1番目でしょ(全体1番目は大洋指名の法大・長崎慶一外野手)。甲子園にも行ってないのに、もっと有名人がいっぱいいたのにね。光栄なんだけど、それよりびっくりだったね。名古屋は行ったことがなかったし、親戚もいないし……」。

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