現役生活縮めた「どんちゃん騒ぎ」 “幻の200勝投手”への思い「悪いことしたなあ」

広島で活躍した川端順氏(左)と川口和久氏【写真:本人提供】
広島で活躍した川端順氏(左)と川口和久氏【写真:本人提供】

新人王・川端順氏を変えた球宴不選出「そこから落ちていったんだよね…」

 野球への情熱が薄らいでいった。元広島投手で、徳島・松茂町議の川端順氏は5年目の1988年以降、何かしら淡々とプレーしている感じだったという。この先、中継ぎ中心の便利屋稼業で生きていくしかないと悟ってから、迷路にはまったようだった。6年目の1989年には大きな支えだった父・治さんが亡くなった。さらに落ち込んだというが、当時のヘッドコーチ、大下剛史氏(現野球評論家)に救われたという。

 オール中継ぎながらイニング数もこなし、前半戦に6勝0敗1セーブをマークした4年目の1987年。後半戦のために体力温存を理由に球宴に選ばれなかった“衝撃”は尾を引いた。今では「なぜ、あそこまで気にしたのだろう」と思うことでも当時の川端氏にとっては、自身をコントロールできないほどのショッキングな出来事だった。

「成績も、そこから落ちていったんだよねぇ……」と川端氏は何とも言えない表情で振り返る。「あの頃は川口とか、白武とか、金石とかを誘って、よく飲みにいった。東京は六本木、名古屋は錦、大阪はミナミ。みんな歌が好きだったから、歌える店でどんちゃん騒ぎ。駄目だよね。睡眠不足になったし、体力も落ちていったし……。川口には悪いことしたなぁ、彼はまともにやっていたら200勝できたんじゃないかなぁ」。後悔しかない。反省しかない。

 広島が山本浩二監督、大下ヘッドコーチ体制になった6年目の1989年には父・治さんが他界した。シーズン中の7月だった。「大下さんが『帰って3日間休め、こっちのことはいいから、お前は今までリリーフで頑張ってきたんやから、チームのためにやってきたんやから』ってね。昔は普通、そんなことはなかったんですよ。そんなに帰してくれるなんてね。登録も外されなかった。すぐに1軍に帰してくれたというか、そのまま。全部大下さんがやってくれました。感謝しかありませんでしたね」。

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