まさかのドラ1指名で「20番をください」 知らなかった“エース番号”…困惑のフロント
鹿島忠氏は1982年ドラフトで中日1位…阪神が2位以下での指名を確約していた
都市対抗も日本選手権にも出場できなかった。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は鹿児島実から社会人野球・鹿児島鉄道管理局に進んだが、全国大会の舞台は無縁だった。プロに注目はされていたが、実績が乏しかった。それだけに1982年ドラフト会議で中日に1位指名された時には驚き「えーって感じだった」という。ドラフト前に阪神が2位以下での指名を約束。それを上回る中日1位指名はまさに想定外だった。
ロッテ、南海、阪神、広島。鹿島氏は社会人3年目のドラフトイヤーにこの4球団から熱心に誘われたという。「都市対抗の予選とかはいいところまで行っていたけど、自分の何がよくてプロに注目されているのだろうと思っていた。そういう自覚は何もなかった」と振り返るが、うれしくないわけがない。初めてプロを意識することになり、考えた末、4球団の中では阪神を選んだ。
「小学校6年の夏まで大阪・門真市に住んでいたので、阪神にはなじみがあったし『1位は(法大捕手の)木戸(克彦)さんに決まっているので2位以降になるけど、必ず指名するから来てくれ』って言ってくれた。それで『行きます。ぜひお願いします』と言った」。ロッテ、南海、広島には断りを入れた。1982年11月25日に行われたドラフト会議。鹿島氏は阪神からの指名を信じて、待っていた。ところが事態は変化した。
「あの頃は午前中に1位指名が行われ、午後から2位以降。1位じゃないと思っていたから、昼飯を食べに行こうとしていた。たまたま、その時はお金があって、食堂のおばちゃんに(職場から)電話して『中華丼食べるから用意しといて。10分後に行くからよろしく』と言って、電話を切った途端に野球部の部長から電話がかかってきて『すぐ来い』って言われたのを覚えている。『今からご飯を食べに行くので』と言っても『いいから、すぐ来い』ってね」