まさかのドラ1指名で「20番をください」 知らなかった“エース番号”…困惑のフロント
中日のエースナンバーは20…鹿島氏は「知らなかった」
野球部の部長がいる部屋に入るまで1位指名とは思ってもいなかった。「『ドラフトにかかった』と言われても『えっ、まだ午前中ですよ』と言ったくらいだったからね。で『どこですか』と聞いたら『中日』って。そりゃあ、もうびっくりポンだよ。中日から調査書は来ていたらしいけど、スカウトの人とは接触していなかったんでね」。でも予想の2位以下よりも上の1位だったから、やはりうれしかった。「ちょっと、これでいい生活ができるかなと思ったね」。すんなり入団決定となった。
鹿島氏は大阪・門真市で幼少時代を過ごしたが、生まれたのは名古屋市だった。「俺が生まれた年(1961年)に(元中日投手の)権藤(博)さんがデビュー。(シーズン35勝を挙げて)権藤、権藤、雨、権藤と言われた年で、ウチの両親も球場に野球を見に行ったことが何回かあったと聞いて、縁があったのかなとも思った」。その権藤氏が1軍投手コーチでもあったから、なおさらだった。
背番号は18に決まった。実はこれにも裏話がある。「契約のため名古屋に行った時、背番号はどうしようという話になった。その時、誰だったか忘れたけど、球団のフロントの人に『18と20が空いているよ』って言われた。俺は18がエース番号だと思ったから、遠慮したつもりで『じゃあ20番をください』って言った。そしたら、えって顔をするわけ。その人は『ちょっと待ってくれる』と言って裏に行っちゃった。そして戻ってきて『鹿島君、18をつけなさい』って」。
そう言われてもまだ気がつかなかった。「えっ、18でいいのって思った。だって知らなかったから。中日は20がエース番号ってことを……。あとでわかった。だったら最初から聞くなって話だよね」。中日の「20」は杉下茂氏、権藤博氏、星野仙一氏らがつけていた栄光の背番号。鹿島氏が入団した時は星野氏が引退して空いていたわけだが「こっちは遠慮したつもりだったのに、逆だったんだよね」。ちょっぴり気恥ずかしいエピソードを経て、中日の背番号18・鹿島投手は誕生した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)