即戦力ドラ1のはずが…打撃投手で過ごす日々 登板ゼロの1年目「嫌われていたのかな」

打撃投手で1軍に帯同…芽生えた「絶対見返してやる」の気持ち

「あの頃はバッティングピッチャーの数が少なくて、1軍がナゴヤ球場で試合の時は2軍から若手投手が1人か2人、ピックアップされて手伝いに行って投げていた。そこに、いつもいの一番に俺の名前があった。1シーズンずっと。そんなふうになって何も思わないわけがないでしょ。屈辱だった。俺は何しに来たんだろうって思った。同級生の牛はバンバン投げているわけだし……」

 中日主催の北陸遠征に呼ばれた時も忘れられない。「新聞記者に『鹿島君、1軍に上がったのか』って冷やかされた記憶がすごくある」。ドラフト1位のプライドなんて、ズタズタだった。

「ナゴヤ球場で(2軍がデーゲーム、1軍がナイターの)親子ゲームの時は朝、球場に行って、2軍の試合を見て、練習して。練習といっても走るだけで、それから1軍のバッティングピッチャーをやって、帰って風呂に入って、また球場に行って1軍のゲーム見学。あれも屈辱だったなぁ」。

 芽生えたのは「絶対見返してやる!」との強い気持ちだった。このままで終わってたまるか。ただ、その一心だった。中日はその年、リーグ5位に終わり、近藤監督は辞任。翌1984年シーズンは山内一弘氏が監督に就任した。

 2年目の鹿島氏はキャンプから頭角を現し、開幕3戦目、1984年4月8日の広島戦(広島)に2番手でプロ初登板を果たした。1年目の中日首脳陣にどんな思惑があったかわからないが、その屈辱の日々が間違いなくバネになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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