引退試合を固辞「狙わせてください」 プロ人生最後の“わがまま”…トップをかけた5番勝負

中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】
中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

川又米利氏は1997年シーズンで引退…最後は当時の代打HR記録に挑んだ

 最後は“5番勝負”に挑んだ。元中日で野球評論家の川又米利氏は1997年シーズン限りで現役生活を終えた。ドラゴンズ一筋19年。1988年のリーグ優勝に貢献するなど、球団にとっては功労者のひとりだ。だが、引退セレモニーは行われなかった。ラスト出場の舞台も本拠地・ナゴヤドームではなく、敵地・横浜スタジアム。実はこれ、川又氏が「星野(仙一)監督に頼んでそうしてもらったんです」という。理由は代打ホームラン記録だった。

 ナゴヤドーム元年の1997年シーズンは開幕2軍スタートだった。5月に1軍昇格。代打として奮闘したが、8月中旬に2軍落ち。「(ヘッドコーチの)島野(育夫)さんに呼ばれて、2軍に行ってくれって言われた。その時は、もう1回這い上がろうって思っていたけど、その後、いつだったかな、(球団)代表と代表補佐に呼ばれた」。名古屋市内のホテルで「来年、契約しない」と通告されたという。

「選択肢は3つくらいあったのかな。そのまま解説者になるか、よその球団にいくか、好きなことをやるか、自分としてはあと1年、20年はやりたいって思っていた。でも、考えた末、よそでやるよりは中日で終わりたいという気持ちになった」。ナゴヤドーム内での引退会見は星野監督が同席して行われた。「びっくりした。ひとりでやるもんだと思っていたからね。うれしかったですよ。逆に緊張したけどね」。

 ただし、会見は行ったが、ナゴヤドームのグラウンドでのセレモニーはなかった。「それは断ったんです。星野監督に引退を決めましたって挨拶に行った時『じゃあナゴヤドームの最終戦(10月3日、巨人戦)にスタメンで行くか』って言われたけど『いや、監督、お願いがあります。最後の5試合、代打でホームランを狙わせてください』って」。当時のセ・リーグ単独1位になる代打アーチ17本目への挑戦直訴だった。その年のラストゲームは10月6日の横浜戦(横浜)。本拠地セレモニーよりも敵地で最後まで戦わせてほしいと要望したわけだ。

ラスト5試合に代打で登場もHRなし「狙わせてくれて感謝しています」

「監督も『そうか、わかった』って言ってくれた。最後のわがままを受け入れてくれた感じだった」。ラスト代打5番勝負は10月1日のヤクルト戦、2日の横浜戦、3日の巨人戦(いずれもナゴヤドーム)、そして5日、6日の横浜戦(横浜)。結果は5打数1安打でホームランはなし。「最後の横浜戦も内野フライ。イメージはライトスタンドしかなかったんだけど、気持ちばっかりで、それらしいのものも打てなかった……」。

 この年の本塁打もゼロに終わり、結局ナゴヤドームでは1本も打てずじまいだった。「ちょっと広すぎるからね。最後もドーム以外でって思ったんだけどねぇ……。でも、あの時、代打ホームランを狙わせてくれたことにはとても感謝しています」。やれることはやってユニホームを脱いだ。一発こそ出なかったものの、ラスト5番勝負は忘れられない思い出になった。

 早実時代は2年春から4季連続甲子園に出場。1978年オフにドラフト外で中日に入団し、レギュラーで活躍するなど貴重な戦力だった。「こんな僕でも入った年のメンバーの中では一番長くプレーできた。どうなるかわからない世界で、絶対負けないぞって気持ちでね。区切りの20年には1年足りなかったけど、自分でもよくやったと思っている」。

 代打ホームランは16本。引退時点では大島康徳氏(元中日)とともにセ1位タイだったが、その後、町田公二郎氏(元広島、阪神)に抜かれ、現在はセ2位タイ(セ1位の町田氏は20本)。「打つな、打つなって思ったけどね、さすが町田だったね」と笑ったが、川又氏の残した数字も色あせることはない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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