落合博満が“予言”した活躍 高卒1年目でブレーク…「不敗神話」作った伝説の右腕

元中日・上原晃氏【写真:山口真司】
元中日・上原晃氏【写真:山口真司】

上原晃氏は沖縄水産から中日へ…1年目の1988年、優勝に貢献した

 あの3冠男・落合博満氏が活躍を“予言”したスーパー右腕だった。19歳で「優勝への使者」と言われた。全身を使ったダイナミックな投球フォームで打者をなで斬った。元中日の剛腕・上原晃氏はプロ1年目の1988年シーズン後半から1軍に昇格し、主にセットアッパーとして星野仙一監督率いる中日の優勝に貢献した。現在は名古屋市守山区の治療院などで勤務する整体師であり、東海学園大の投手コーチも務める上原氏の野球人生をクローズアップする。

 あれは1988年、中日の沖縄・石川での1次キャンプ中のことだった。恩納村の選手宿舎「ホテルムーンビーチ」プールサイドで、当時の中日の主砲・落合氏は記者の単独インタビューに対して、こう断言した。「今年、俺が一番良かったと思ったのは上原晃が中日に入ったことだ」。こちらから上原投手の話を振ったわけではない。突然の話題転換で、これだけは言っておきたいとばかりに、落合氏が自ら口にしたことだった。

 当時の上原氏は沖縄水産からドラフト3位で入団したばかりのルーキー。もちろん、まだプロで結果も出していない。この沖縄1次キャンプの後に中日1軍は米フロリダ州ベロビーチで2次キャンプを行ったが、上原氏は参加していない。同期のドラフト1位ルーキー・立浪和義内野手(現中日監督)が1軍に帯同する中、2軍キャンプで調整する立場だったが、落合氏はその段階から戦力になるとみて、“イチ推し”選手として名前を挙げたのだ。

“予言”は見事に当たった。上原氏は先発としてウエスタン・リーグで7連勝。ジュニアオールスターでは1点リードの8回から登板し、2イニングを無失点に抑えてセーブを記録した。150キロのスピードボールが注目を集め、シーズン後半戦に1軍昇格。7月31日のヤクルト戦(神宮)に4番手で登板し、2回無失点デビューを果たした。中日はこのルーキー右腕の加入で勢いを加速させ、優勝に突き進んだ。

「上原が投げると勝つ」話題を呼んだ“不敗神話”

「あの頃は充実していましたね。星野さんに使ってもらってありがたかったです。初登板は無我夢中で投げていました。テレビで見ていた杉浦(享)さんをポップフライでアウトに取った記憶があります」と上原氏は当時を思い起こした。“落合発言”については「落合さんにいいピッチャーだと評価してもらったというのは、後になって誰かに聞いたことがあります。うれしいですよね。その頃から戦力としてとらえてくれていたというのですからね」。思わず笑みがこぼれた。

 実際、上原氏はデビュー以降、すさまじい勢いでドラゴンズの戦力になっていった。3試合目登板の8月7日の阪神戦(ナゴヤ球場)では0-2の8回にマウンドへ。2回打者6人に無安打3三振無失点の完璧投球を見せた。8回裏に味方打線が逆転し、プロ初勝利。抑えの郭源治投手につなぐセットアッパー的な存在になり「上原が投げると中日は勝つ」という“不敗神話”が取り沙汰されたこともあったほど。星野中日を優勝に導く右腕として脚光を浴びた。

 1年目は24登板で3勝2敗1セーブ、防御率2.35。体が柔らかく、全身をバネのように使ったフォームで剛速球を投げ込んだ。「コントロールよりも球威で勝負するようなピッチャーだったんでね。全身を使って、そういう意味では勢いだけで投げているような体の連動。目一杯投げているような感じだった。そういうピッチングフォームでしたよね。だから……」。その後、まさかの故障に苦しむことになるが、ルーキー時代の上原氏の活躍はまさにインパクト大だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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