「彼女と離れたくなかった」 “移籍遅延”で人生激変…1か月早ければなかったドラ1指名

阪神、オリックスでプレーした野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスでプレーした野田浩司氏【写真:山口真司】

所属チームが廃部も特例でドラフト対象者になった元阪神・野田氏

 野球評論家の野田浩司氏は、社会人野球・九州産交(熊本)から1987年ドラフト1位で阪神に入団した。これにはさまざまな出来事が重なった。九州産交野球部の廃部決定、日本選手権九州予選での快投3連発、高卒2年目でドラフト対象選手になる特例……。さらには「1学年下で当時、九州産交のチアガールだった嫁さん(千代美夫人)と付き合っていたんですけど、もし付き合ってなかったら、その年プロには行っていないと思う」と明かし、その理由も説明した。

 1987年、九州産交野球部のその年限りでの廃部が決まった。社会人2年目だった野田氏はショックを受けたが、日産自動車九州(福岡)からエース格として誘われ、翌シーズンからの移籍が内定し「職場も背番号も決まっていた」。9月の日本選手権予選で九州産交として最後の大会を終えると、日産九州に行き練習を開始するスケジュール。その年、日産九州は日本選手権初出場を決めており、野田氏はその練習にも参加して試合はスタンド観戦の予定だった。

 それが、日本選手権予選で野田氏は3連続完投。その後、ヤクルト・片岡宏雄スカウトが野球協約を調べて、社会人チーム廃部の場合は、通常の高卒3年目でなく、2年目でもドラフト対象とわかり、一気にプロ入りに軌道修正となった。「日産九州には部長とか上司が謝りに行ってくれた。日産九州には失礼なことをしました。迷惑をかけました」と振り返ったが、この流れには他にもドラマがあった。「日本選手権が終わってすぐ日産九州の福岡に行く予定だったのを、1か月だけ待ってもらっていたんです」。

 そこで出てくるのが、交際中だった千代美さんの存在だ。「九州産交での残務処理が、行くのを遅らせた理由ですが、もうひとつ、彼女とまだ離れたくなかったこともありました。福岡に行けば、熊本と遠距離恋愛になるでしょ。それを1か月でも遅らせたかったんです」。これも運命だったのだろう。その1か月の間にスカウトたちの動きが活発になり、野田氏のプロ行きが現実化していった。

「福岡に行った後だったら、たとえドラフト対象になるとわかっても、その年はプロに行くわけにはいかなかったと思います。日産九州で練習を始めているわけですから」。まさに千代美さんと交際していたからこそ、プロへの道が開けたといってもいいわけだ。そして運命の球団が阪神タイガースだった。「阪神にドラフト1位指名されて、人生が変わりました。ドラフトの日から変わりましたね」。

1987年ドラフト会議で阪神が指名…「祝1位」の花輪が

 ドラフト前、野田氏はヤクルト入りを最有力視していたという。立大・長嶋一茂内野手の外れ1位と言われていたからだったが、ヤクルトは長嶋内野手を引き当てた。そして、東亜学園・川島堅投手を外したウエーバー順1番の阪神が、野田氏を1位指名。「阪神の1985年の優勝フィーバーは知っていましたが、熊本では阪神の記事はあまり載らないし、テレビ中継もなかったんでね。ここまでの人気球団だったことにびっくりしましたよ」。

 ドラフト当日、初めは報道陣が少なかった。それが阪神1位となるや変化した。「後から後から、どんどん記者の方とかが来られましたからね。あの時、僕、会社から熊本城まで3往復しましたよ。熊本城をバックに写真撮影のためにね。誰かが『この兄ちゃん、プロ野球のドラフト1位にかかったから、胴上げしてやって』と言って、修学旅行生に胴上げされました」。もう何が何だか……の世界だった。

 翌朝も驚きは続いた。「朝起きたら、寮の前がパチンコ屋の開店みたいになっていた。祝ドラフト1位”の花輪がドーンと来ていましたから」。取材もしょっちゅう。熊本育ちの野田氏にとって、それは想像を絶する“阪神人気”との闘いの幕開けでもあった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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