スカウトの「3位までに指名するよ」は大嘘 プロの冷遇に反発…“必殺仕事人”の原点

西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】
西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】

1967年選抜制覇…1983年日本シリーズMVPに輝いた大田卓司氏

 人呼んで「必殺仕事人」――。西鉄時代からライオンズ一筋18年、寡黙で大きな仕事を成し遂げるイメージがあった。現在でも「史上最高の日本シリーズ」とも言われる1983年の西武対巨人ではMVP。引退後はコーチやスカウトを歴任した。大田卓司氏は現在、古希を過ぎて72歳。好々爺然とした柔和な風貌になっているが、改めて現役時の話を聞くと、プロ入り時に受けた“冷遇”への反発心が、18年間の野球人生の原動力となったと語る。

 九州・大分県出身。さかのぼること50余年、津久見市立千怒小学校時代はソフトボールに興じ、剣道を習った。剣道と野球の共通点をこう語る。「私はバットを上段に構え、グリップを絞る打撃フォーム。剣道の面、胴などの打突(だとつ)は、打撃のインパクトに通じたのではないでしょうか」。

 津久見第一中学校で本格的に野球を始め、津久見高校機械科に進学して野球部の門を叩いた。3学年上の長兄が同高1年夏に甲子園出場。兄と3年生エース・高橋直樹(のち東映=現・日本ハム、プロ通算169勝)の雄姿に憧れたのだ。そして大田氏自身も高2春の選抜に出場し、決勝で弘田澄男(のちロッテほか)がいた高知高を破り、全国制覇を成し遂げた。レフトを守り、1番を打つ斬り込み隊長だった。

 1年先輩の甲子園優勝投手・吉良修一はドラフト2位で阪神入り。大田氏もプロを現実のものとして意識し始めた。「それでも、練習試合を含めて本塁打はゼロ。コツコツとヒットを重ねるのはいいけれど、これじゃあ、プロのスカウトの声は掛からないよなぁ」。

3位までに指名は大嘘…「九州の球団でなかったら入っていなかった」

 100メートル走12秒2、遠投100メートル。新チームになるとウエートトレーニングを採り入れ、その身体能力を伸ばした。腹筋、背筋、懸垂、腕立て伏せ。重いマスコットバットでタイヤ叩きを1日200回。その努力は、小柄な170センチながら、3年時に6試合連続を含む通算18本塁打を放って結実した。

 そんな急成長の大田氏に、6球団から誘いがかかった。ドラフトの数日前、津久見高の校門前にフェルトハットをかぶったコート姿の紳士が立っていた。ある球団のスカウトだった。「大田君、ウチは3位までに君を指名するよ。よろしくね」。

 1968年は、約60年の歴史を有するドラフト会議で「最高の豊作」とも呼ばれる。山本浩二(法大、広島1位)、東尾修(箕島高、西鉄=現・西武1位)ら7人の名球会選手を輩出。そして、「当時の大分の高校野球はレベルが高かった」と言う通り、大島康徳(中津工高、中日3位)、春日一平(中津工高、西鉄5位)、島崎基慈(大分商高、阪急=現・オリックス6位)、大下正忠(別府鶴見丘高、巨人7位)、川野雄一(臼杵高、西鉄8位)、石井吉左衛門(津久見高、西鉄10位)と、大田氏を含め7人の同郷の高校生がプロから指名された。

 ところが……。大田氏は3位どころか、西鉄の9位。「頭にきた。9位だと? 県内選手の中で評価が低いのにも納得がいかなかった。九州の球団でなかったら、入っていなかった」。

 入団契約のために列車で、球団事務所のある博多駅に向かった。しかし、ここでも駅にスカウトの出迎えもなければ、記者会見も用意されていない。この仕打ちが、九州男児の大田氏の気持ちに火をつけた。

「以後も『その他大勢』の扱いは続きました。絶対に見返してやる! その反骨心、反発心が私のプロ18年間を支えたのです」

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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