成人式も入院中…3度手術で全68針&7か所の穴 「もう限界」戦力外で後悔なき現役引退

今季までオリックスでプレーした竹安大知氏【写真:真柴健】
今季までオリックスでプレーした竹安大知氏【写真:真柴健】

阪神、オリックスで活躍した竹安大知「よくここまでやらせてもらえました」

 体がボロボロになるまで、投げ抜いた。オリックスの竹安大知投手は10月28日、戦力外通告を受けた直後、すぐに現役引退を決断した。「右肘が痛んで、マウンドに立つことが怖かった日もありました。最後まで全力でやり切ったので、もう限界なのかなと。モヤモヤせずに(現役生活を)終われる選手って、なかなかいないのかなと感じています」。長袖のパーカーの腕をまくると、68針の“勲章”が残っている。

 29歳になった右腕は、自身の野球人生で3度の右肘手術を経験。7箇所に穴を開ける処置を受けても、マウンドに立ち続けた。阪神、オリックスで過ごした8年間のプロ野球生活に「もっと早く(選手生命が)終わっていた可能性がある中、よくここまでやらせてもらえました」と感謝の言葉を忘れない。

 度重なる怪我により「プロ野球生活の半分以上がリハビリ生活でした。だから、思っていたよりも全然(マウンドで)投げられていない。(怪我で)投げられないということは、トライ&エラーの回数が少ないので技術の向上も難しくなっちゃうんですよね……」と声のトーンを少し落とした。

 じっと見つめる右肘とは、ともに苦難を乗り越えてきた。最初に大きな決断を下したのは20歳の12月だった。プロ入りを夢見ていた社会人時代、痛めた右肘のトミー・ジョン手術を決めた。

 ふと思い出すのは成人式だった。当時、熊本で野球に打ち込んでいた竹安は「(術後の)入院中で行けなかったんですよね……」と静岡に帰ることはなかった。「みんな成人式の写真をグループラインに貼っていて、良いなぁと思いましたよね」。今となっては“笑い話”だが、20歳の当時は病室で寂しく天井を見つめた。

3度の右肘手術に「やっぱり怖いですよ」

 1度目の手術で、右腕に40針を縫った。「(幼少期は)大きな手術をするくらいなら、野球を終わろうと思っていたんですけどね」。好投を続ける度に、事情が変わっていた。「手術する前に『来年、上位候補で指名させてもらうから』と言ってくださるスカウトの方がいたと聞いたんです。自分はプロの世界に行きたかったので『結構、目の前になってきたな』と思ってました」。

 目の色を変えて、病院で話を聞いた。「あの時、靭帯が断裂していたんです。ただ、目の前に(プロの世界が)来ていたら行くしかない。(手術を)するしかないと決めました。それまではずっと、手術するくらいなら辞めようと思っていたのに、簡単に決断しましたね(笑)」。震える胸中を、静かに抑えた。

「結局、3回手術をすることになるんですけど、やっぱり最初は怖いですよ。社会人時代(入部から)3年でプロに行きたいと思っていたんですけど、リハビリがあるので、トミー・ジョン手術をしたら『もう無理だ』と思っていた。急いだとしても、1、2年は伸びるのかなと思ってました」

 髪を洗う際、腕が上がらなかった。「日常生活もままならない状態ですからね」。右も左もわからない20歳。懸命なリハビリ生活を終え、21歳になった9月に公式戦復帰を果たした。「必死でした。痛いのか痛くないのかもわからないくらい」。その秋のドラフト会議で阪神から3位指名を受ける。「ホッとしましたよね……」。育ててくれた家族に、1つ恩返しができた。

オリックス現役時代の竹安大知【写真:荒川祐史】
オリックス現役時代の竹安大知【写真:荒川祐史】

リハビリ生活は「永遠に靴擦れを繰り返す気分でした」

 2018年オフに人的補償でオリックスに移籍。移籍1年目の2019年に10試合に登板し、3勝2敗と結果を残したが、さらなる状態向上を目指して2回目の右肘手術を決めた。「1回目の手術(40針)があったので、2回目は余裕に感じました。それでも20針ですけどね」。夏場に半袖で電車に乗り、吊り革を持つと「絶対に見られますね」と苦笑いする。「手術痕をみんな、パッと見てくれるんです。その後、絶対に顔を見られますね……。ヤバい奴じゃないかなってね(笑)」。残った“勲章”は、今では良い思い出になった。

 最後の手術は昨年11月の右肘クリーニング手術だった。「3回目は8針で、合計68針になりました。今年はリハビリ生活も(3回目で)少しきつかったですね……」。これまで戦列復帰を目指したリハビリは順調に進んでいたが、今年は違った。

「(感覚が)なじまなかったんです。新しい革靴を買って履いたら、靴ズレをしますよね? 2、3回履いたら、なじんでくる。だけど、今回(のリハビリ)は永遠に靴擦れを繰り返す気分でした」

 患部とも闘う日々ながら、2軍では5試合に登板して2勝0敗、22回1/3を無失点に封じて防御率0.00を記録していた。「とにかく痛かったです……。最後の方は、マウンドに立つことが怖かった。投げてる最中も痛みが出るんですけど、翌日の方が痛みが出るので」。深く目をつむる夜も多くなった。

 奮闘を続けると、突然、携帯電話が鳴った。5月19日の夜、エース山本由伸投手が発熱のため“代役先発”の舞台が巡ってきた。「頂いたチャンス。思い切りいくしかなかった」。制限を解除した翌20日の日本ハム戦(京セラドーム)。2回途中で28球目を投じた瞬間に“異変”が起き、緊急降板した。

「もちろん、投げられる状態ではあったんですけど(2軍では)どこか制限しないといけなかった。でも、1軍のマウンドで、それは通用しない。行くしかなかったんです。ものすごくアドレナリンが出ていましたね」

68針を縫っても、叶えた夢

 当日に荷物をまとめて、大阪・舞洲に戻った。「まだやれるのか……?」。自問自答を繰り返すと、答えは見つかった。簡単に復帰できるとは思ってなかったが、元気いっぱいの選手を見送るリハビリ生活には飽きていた。

 リーグ3連覇を決めた後の10月6日ロッテ戦、先発登板の機会を掴んだ。敵地での一戦に親を呼んだ。結果は4回途中63球11安打4失点。悩んで立ち止まった自分を見返した。夢は見ることが全てじゃない。68針を縫っても、叶えてきた。だからこそ、ボロボロになっても立ち上がり続ける人生を選んだ。傷だらけの体で最後の雄姿を見せ、誇りを持ってユニホームを脱いだ。未練はない。感謝の気持ちしかない。

(真柴健 / Ken Mashiba)

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