幻に終わった阪神入り「金本、ごめん」 オーナーに“別れの謝罪”も…こだわったチーム愛

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

阪神・金本監督からのコーチ要請に「君への協力はいくらでもするけど…」

 カープ一筋にこだわった。広島OB会長で野球評論家の大野豊氏は2012年に広島1軍投手チーフコーチを退任した。その後は2014年秋に和田豊監督率いる阪神の臨時コーチを務めたことはあったが、正式なコーチとしてユニホームは着ていない。2015年オフに広島時代の後輩である金本知憲氏が阪神監督に就任した際、投手コーチを頼まれたが、断った。「自分の気持ちの中で広島を出るということがね……」。他球団からの誘いに対しても同様の結論を出したという。

 2013年、大野氏は野球殿堂入りを果たした。「全く考えてなかったんですけどね。沢村賞もそうですけど、殿堂入りも関係の人から認められて、すごく名誉なことですし、とてもうれしかったし、感謝しています」。広島での祝う会では達川光男氏を相手に始球式を行った。スピードガンで125キロを計測。「そうそう、壇上でね。金本が打席に立つというから『それはやめなさい』って言ってね」と笑いながら、振り返った。

 阪神の臨時コーチを務めたのは、その翌年の2014年だった。「初めての経験でしたけどね。(阪神の)中村(勝広)GMから『お願いできますか』って連絡があって『秋であれば』ということで行きました。当時も、いろんな左ピッチャーがいましたね」。タイガースとの“縁”ができ、さらに翌年の2015年オフにはかわいい後輩でもある金本氏が阪神監督に就任。阪神関係者から「コーチを受けてもらえませんか」との電話があったという。

 大野氏は「金本が監督なら、受けてもいいかなとの気持ちもあったんですけど、いざ、その話を聞いたら、やっぱり自分は受けられないと断ったんです」と明かす。「広島を出るという感覚、タテジマを着るイメージが湧かなかったし、当然、カープのことも頭にはあった。他のチームのユニホームをコーチであろうとも何か着づらいというのがね」。

 金本氏からも「大野さん、お願いします」との電話があったが、大野氏は「金本、ごめん、君への協力はいくらでもするけど、タテジマのユニホームは着れないわ。悪い」と伝えたそうだ。「阪神の臨時コーチから戻った時に(広島の松田)オーナーにも言ってはいたんです。『オーナー、すみません、ひょっとしたら違うチームのユニホームを着てやるかもわかりません』と……。それで了解も得ていたんですが、自分の気持ちの中でそれは無理でしたね」。

 以降、阪神以外の球団からも誘われたそうだが、同じ理由で首を縦に振らなかった。「臨時コーチであれば、まだ受けられますけど、実際にシーズンを通してコーチで違うユニホームを着て受けるということはやっぱりできないなと……。それはこの先もないです」。その上で「自分では若いと思っているけど、今の監督、コーチは僕らより、一回り、二回り、若い世代のイメージ。もう誘われることもないでしょうし、現場に戻る気はないですよ」とも話したが……。

2歳下の盟友・北別府学さんへの思い「生き様を見せてくれた選手」

 2021年12月5日、大野氏は広島OB会の会長に就任した。「名ばかりの会長ですよ」と笑うが、これも人望あってのことなのは言うまでもない。もちろん、現在の新井貴浩監督率いるカープには熱い視線を送る。「表立って、何か協力するというのはなかなかできないんですけどね、みなさん新井カープを応援しようという気持ちでいるわけですから」。カープのさらなる躍進を願うばかりだ。

 そんな中、悲しい出来事もあった。2023年6月16日、白血病と闘っていた北別府学さんが亡くなった。「ショックですよ。相当ダメージがあったというか、つらかったです。同じ世代で戦った中で僕より(2歳)年下だし……。コントロールを学んだし、プライベートでも釣りに行ったりとかしたし」。思い出は尽きない。「先発投手としての生き様を見せてくれた選手かなと思う。人を寄せ付けないようなオーラというか、そういうのも出していたね」。

 1992年7月16日の中日戦(ナゴヤ球場)で北別府投手は200勝を達成。その試合で9回を締めたのは大野氏だった。「自分がそれに協力できたのはよかったと思うけど、まぁ迷惑をかけたこともあったからね」。北別府さんの葬儀では大野氏が涙ながらに弔辞を述べた。「その雄姿を忘れることは決してありません。私の心の中でずっと生き続けています」。出会いもあれば、別れもある。それはわかっていても寂しくてたまらなかった。

 今、大野氏は野球評論家の仕事をしながら、時間を見て高校生の指導も行っている。瀬戸内、広島商、尾道、母校でもある出雲商……。「あくまでお手伝いですよ。コーチのように毎日は見に行けませんから。どこの高校でも来てくださいといわれて、都合があえば行くようにしています。そういうふうにしているんです。迷惑はかけたくありませんし、本当にちょっと見てくださいという時にね」と笑顔で話す。

「自分の経験上の何かを伝えて、ちょっとでも役に立って、成長して力をつけてくれて、甲子園に行ったり、プロに入るような選手が出てきたらいいなというのはありますよね」。それが68歳になった現在の目標とか夢にも該当するのかもしれない。「今は自分のことよりも、相手に何かを与えられたら、という感じですね。とにかく元気で過ごしたい。元気であれば自分でやりたいことができる。そういう思いが強いです」。

女手一つで育ててくれた母・富士子さんは2年前に97歳で旅立った

 ここまで大野氏はいろんな人に出会い、助けられながら、学びながら、そして自分を信じて突き進んできた。女手ひとつで育ててくれた母・富士子さんを手助けしたい。その強い気持ちから始まり「必ずプロで成功して広島に呼ぶから」と母に約束してカープに入った。その目標を持って、テスト生から殿堂入りの大投手への道を切り開いていった。「26歳の時に結婚して母を広島に呼びました。28の時に家を建てた。ひとつ、ひとつ夢をクリアしていった感じでした」。

 富士子さんはずっと大野氏を見守り続けた。「現役の時は陰ながらというかやきもきしながら応援してくれました。お袋さんはね、シーズン中もちょこちょこ球場に見に来ていたんですよ。見るのはだいたい内野の自由席。指定席では見なかったんです。僕の引退試合の時もバックネット裏の席を用意していたんですけど『私は自由席で見る』って言ってね……」。

 2年前の12月に富士子さんは97歳で旅立った。「施設に入っていたんですけど、コロナがあって、なかなか面会ができなかった時は窓越しに外から『おーい』って声をかけたり……。面と向かっても10分とか15分。思うように話もできなかったけど、そんな中でもいろんなことを心配しながら声をかけてくれました。最後はしゃべることができなかったから紙と鉛筆を出して言いたいことを書いてって渡したんですけど書かなかったんですよね……」。

 母の存在を支えに先発も抑えもこなした大野氏といえば、沈み込む投球フォームが特徴でもあった。「よくよく考えたら大変だったです。若い時はまだ浅かったんですけど、年齢を重ねて沈みが深くなった。よりきつくなるんですけど、要はあれがひとつの間なんです。自分の中でね。だから下半身を非常に意識して強化しました。40前になって楽しようと思って浅くしたらボールがいかなかった。あの時はこれを崩したら駄目なんだって改めて思いましたね」。

 カープ一筋のレジェンド左腕の“歴史”は奥が深く、重みがある。そして、まだまだ野球界に必要な存在だ。今もなおトレーニングを欠かさない大野氏にはユニホームが一番よく似合う。それも間違いない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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