せっかくの甲子園も…飛んだ試合の“記憶” 全て狂わせた悲劇「終わるまで空白」

選手、指導者として活躍した野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
選手、指導者として活躍した野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

柏原純一氏は熊本・八代東高2年秋に九州大会V…翌年の選抜に出場した

 念願の甲子園出場も、まさかの“悲劇”が待っていた。元日本ハムの主砲で野球評論家の柏原純一氏は1970年、八代東3年の春「第42回選抜高等学校野球大会」に出場した。開会式直後の第1試合で日大三(東京)と激突し、0-2で敗れたが、主将であり、エースで4番の柏原氏は、その試合について「全く覚えていない」と話す。印象に残っているのは開会式後の出来事。グラウンドから引き揚げる時にスパイクが引っかかってこけてしまい、そこから頭の中が真っ白になったという。

 八代東では1年からレギュラーだった柏原氏だが、当時は上下関係が厳しく、精神的にも肉体的にもかなりきつかったそうだ。「僕より上手いヤツがボコボコやめましたからね。僕はよく持ったなって思います」。その上アップダウンが激しい道を1時間弱の自転車通学。「僕が1年の時、学校が球磨川の河口にグラウンド用の土地を確保したんですが、そこまでも学校から自転車で45分くらいかかった。夜は同級生と『もうやめようか』なんて言いながら帰っていました」。

 そんななか、父の応援が支えになった。「グラウンドは土地を買ったばかりで外野は膝まで草ぼうぼうだったんですが、僕らが練習に行ったら、電気草刈り機で草を刈っているおっさんがいた。ウチの親父でした」「熊本での熊本商との練習試合で、僕は寝坊してタクシーで熊本まで行って、第1試合に先発。まさか投げるなんて思ってもいなかったけど、金網のところにひとり、おっさんが。ウチの親父でした」。いずれも忘れられない。

 1968年、1年夏の熊本大会は準々決勝で九州学院に0-5。1年秋は八代第一(現・秀岳館)に1-11で5回コールド負けを喫した。1969年、2年春は準決勝で熊本工に1-4。2年夏は初戦の2回戦で熊本二に0-1で敗れた。柏原氏は3番打者で2番手投手だった。「でも負けて、ざまあみろって思いました。それくらい、あの頃は(上下関係が)ひどかったんですよ。よくいじめられました。野球ではエースの人以外には負けなかったですけどね」。

 上級生が抜けた2年秋、八代東は躍進した。熊本大会、さらに九州大会も優勝し、念願の選抜切符を獲得したのだ。柏原氏はエースで4番でキャプテン。「僕らのチームはバランスがよかったですからね。特別、僕がピッチャーとしてすごかったわけじゃない。球は遅いし、130キロくらいじゃないかな。でもコントロールはよかったと思います」。熊本大会では準決勝の熊本工戦を延長11回7-6で制したのが大きかった。

 3-1でリードしていた8回裏に5点を奪われ、逆転されたが、3点を追う9回表に追いつき、11回表に勝ち越した。「覚えていますよ。8回はサードゴロで楽勝アウト、よしチェンジだって思ったら、セーフって。判定がひどかった。えーってなりましたよ。それからあれあれって感じで5点とられた。やられたって思ったら、9回にキャッチャーのヤツが打って同点になった。彼は真っ直ぐに強かったんですよ。あそこで変化球を投げられていたら三振でしたね」。

開会式終了直後にグラウンドで転倒…直後の開幕戦に0-2で敗れた

 決勝は松橋に9-1で快勝。柏原氏は投げては1失点完投、打っては5打数2安打3打点と活躍した。続く九州大会は天にも助けられたという。「肘が痛かったんですが、準決勝が雨で1週間流れたんですよ」。そのおかげで準決勝は津久見(大分)に6-4。決勝は筑紫中央(福岡)を3安打完封の1-0で下した。「無四球でした。完封も初めてだったんじゃないかな」。八代東の選抜初出場の立役者にもなった。

 だが、その選抜は「上の空で終わった」という。開会式直後の第1試合で日大三に0-2で敗れたが「覚えていないんだよねぇ……。後で記事を見て、2点に抑えたんだと思ったし、どうやって点を取られたのかと思って調べたら、スクイズとダブルプレー崩れだった。そんな感じ。だって空白ですもん。終わるまで」。原因は開会式を終えてグラウンドから引き揚げる際に起きた。「ファウルグラウンドから出てセメントのところでスパイクが引っかかってこけたんだよね」。

 その恥ずかしさがすべてを狂わせた。「転んだ後、どこに行けばいいのかわからなくなった。僕の後にみんな付いてきているし、迷っている間に、係員の人に呼ばれて、グラウンドに行って、そうこうしているうちに試合が始まって、あれ、もう終わったのって感じ。緊張していたんだろうね。まったくわけがわからなかった」。せっかくの晴れ舞台がまさかの転倒で何もかも……。「だから甲子園はねぇ。こけたことは覚えているけど、それ以外は……」。

 3年夏は熊本大会の準々決勝で熊本一工(現・開新)に敗退した。結局、3年春の選抜出場が高校時代の柏原氏にとっては唯一の甲子園。それだけに、何ともむなしい思い出になった。「その年の夏の甲子園は見に行きました。アルバイトしてお金をためて、同級生4人と大阪に行った。他の3人はダンスクラブとかそういうところに行って、僕だけ甲子園に行きました。三沢(淳投手、江津工→中日)が投げていましたね」。

 ただし、その時も……。「友達と午後7時に梅田の歩道橋で待ち合わせしたんですけど、なかなか来ないんですよ。やっと9時頃来たけど、お金を使ってしまって、ないって。僕のお金だけで南港から別府に行って、素泊まり700円のところに泊って各駅停車の電車で帰りました。梅田で2時間ボーッと待っていたのも甲子園に行った思い出かなぁ」。プロでは現役を甲子園球場で終えることになる柏原氏だが、高校時代の“聖地体験”には苦笑しきりだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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