続いた深夜のドライブ…眠れぬ日々に「もう駄目だ」 新人の白星消した“許せないミス”

野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

柏原純一氏は1988年限りで引退…2つの失策が“決定打”となった

 最後は守備力の低下で引退を決意した。1988年、柏原純一氏(野球評論家)は南海、日本ハム、阪神と3球団を渡り歩いた18年間の現役生活にピリオドを打った。阪神でのラストシーズンは51試合の出場。「全然悔いはなかった。もうやってもできないと思った。無理だと思った」。打力、守備力、走力の3拍子揃っているのが売りだったが、特に自信があったファーストの守備で1試合2失策した時に決めたという。

 日本ハムから阪神に移籍して1年目の1986年は17本塁打を放つなど活躍したが、1987年は出番が半減し、57試合で1本塁打、5打点に終わった。「阪神での1年目は比較的、成績を残していたので気持ちもわりと平和だったんだけど、2年目、3年目になると、結果を残せないから寝れなくなってねぇ。バットを横に置いて、朝方、バットを振って、それから寝ようとしても寝れないからドライブに行ったり。夜が明けてから寝るような感じだった。しんどかったね」。

 日本ハム時代の走塁中に人工芝の影響で痛めた右足付け根。その状態もよくなることはなかった。痛みとずっと付き合い続けながらのプレーだった。「阪神の2年目だったかな、スタメンで打って、明日も俺だなって思ったら佐野の仙ちゃん(佐野仙好外野手)で。そういうのもあって精神的にもね、あの時34とか35歳だよね。やはり結果を出さないと、自分が追い込まれていったよねぇ」。

 阪神3年目、1988年7月30日の大洋戦(甲子園)が、柏原氏にとって引退への“決定打”になったという。3-0で迎えた8回表だった。途中からファーストの守備についていた柏原氏がエラー。この試合に先発していたルーキーの野田浩司投手が、直後にパチョレック外野手に同点3ランを浴びた。さらに延長11回にもフライを捕りにいって落とすエラー。ルパード・ジョーンズ内野手に代わって守備固めで出場しての2失策。一塁守備には自信があっただけに、自分自身を許せなかった。

「僕が捕っていたらその回は終わりだったのに……。ちょっとイレギュラーしたんだけど、あれは駄目ですよ。しかも俺がエラーしたことで野田の勝ち星がなくなった。それがいたたまれなかったね。(11回の)内野フライも落として、もう駄目だと思った。これではチームに迷惑をかける。それで決断しました」。その後も数試合に出場したが、もう気持ちは変わらなかった。

引退試合では盗塁もマーク「ギリギリだったけどね」

 引退試合は9月10日の巨人戦(甲子園)。伝統の一戦が最後の舞台になった。まだシーズンは残り20試合以上ある中で行われたのは、9月中旬から、選手登録ながら、事実上のコーチとして若手とともに米国フロリダの教育リーグに向かうからだった。ラストゲームでは四球で出塁して二盗に成功、木戸克彦捕手のライト前タイムリーで二塁から生還した。「盗塁はサインじゃない。もう走ったろうって思ってね。セーフになる自信はあったよ。ギリギリだったけどね」。

 1976年シーズンには26盗塁をマークするなど、柏原氏は走塁技術にも定評があった。決して足が速かったわけではないが、隙あらば、次の塁を狙うのは、ずっと心掛けてきたことだ。通算成績は1642試合、1437安打、打率.268、232本塁打、818打点、140盗塁。「やれることはやったので、悔いはなかった」と柏原氏はサラリと話したが、それこそ、足の状態が万全なら、どの部門もさらに数字を積み重ねていたのではないだろうか。

 18年間の現役生活ではいろんなことがあった。日本ハム時代の1980年5月13日の西武戦(後楽園)は忘れられないという。6回裏に柏原氏が西武・柴田保光投手から3ランを放ち、3-0で勝ったが、その試合で日本ハム打線が放ったヒットはその1本だけ。「四球、四球、ホームラン。僕のホームラン、1安打だけで勝ったんですよ」。もちろん、プロ11年目、1981年7月19日の西武戦(平和台)で見せた“敬遠球ホームラン”もインパクト大だ。

 ただし、離れ業はそれだけではない。「所沢で1試合3発、レフト、センター、ライトに放り込んだ記憶もあるし、南海時代にはサードライナー、ファーストライナー、ピッチャーライナーって時もあったし、広島とのオープン戦ではレフトポールにホームラン、ライトポールにホームランなんてこともあったんです。僕は結構、そういうのが多かったんですよ」。そういう意味でもひと味違う現役生活だったということか。柏原氏は終始笑顔で振り返った。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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