目が覚めたら「ウワーって思いました」 曲がらぬ左腕…ドラ1を襲った“謎の痛み”

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

都裕次郎氏は4年目に突然の左肘痛でリタイア

 滋賀・堅田高からドラフト1位で中日に入団した左腕・都裕次郎投手は3年目の1979年シーズン後半に1軍デビュー。プロ初勝利を含む2勝2敗3セーブをマークした。ついにきっかけをつかんだかに見えたが、翌1980年には、またもや試練が待っていた。4月に左肘を故障。「肘が全然曲がらなくなったんです」。初めて痛めた箇所で「なぜそうなったのかもわからなかった」という。再び不安に襲われた。

 プロ3年目の8月に1軍に昇格して、それなりに結果も出した。ドラフト1位で入団した左腕への期待は再び高まったが、4年目はまたも「まさか」の展開だった。開幕2戦目の4月6日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)には2番手で登板して3回1失点とまずまずだったが、その後はリリーフで登板してもピリッとしない結果が続いた。4月26日の大洋戦(横浜)は2番手で登板し、松原誠内野手に満塁弾を浴びるなど、1死も取れずにKOされた。

「その次の日、朝起きたら、肘が全然曲がらなかったんです。ウワーって思いましたね」。それまで肘を痛めた経験はなかった。「じわじわと痛くなったのではなく、急にだったんですよ。なぜそうなったのか。投げ方とか変に力んでいたのかもしれませんが、自分ではよくわかりませんでした」。とはいえ、この状態では投げられない。「それで登録抹消となりました」。無念の離脱だった。また挫折を味わうことになった。

「幸い靱帯損傷とかそういうのではなかったので、当時はひとまず安静に、ということでした。日にち薬で、って感じでね」。2軍でのリハビリ生活が始まったが、実際に時間をかけて肘は治っていったという。2軍での実戦登板を経て1軍に復帰できたのは9月。シーズンの大半を棒に振ったものの、都氏はそこから躍動し始めた。9月28日の阪神戦(甲子園)には先発して8回1/3無失点で勝利投手。10月19日のヤクルト戦(草薙)では2失点での初完投勝利を飾った。

 さらに10月24日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)でも1失点完投勝利。9、10月で計3勝を挙げて4年目は終了した。怪我に苦しみながらも、最後はまた次につなげる形に整えた。ちなみに「そこからプロが終わるまで、肘を痛めたことは1回もなかったです。ホント、その時だけでしたね」とのこと。原因もはっきりしないまま、完治。肘痛を防ぐために「特に何かをしたとか、何かを変えたということもなかったんですけどね」と不思議そうに振り返った。

5年目に6勝マークも“尻すぼみ”…オフに米教育リーグに参加した

 中日監督に近藤貞雄氏が就任した1981年シーズン、プロ5年目の都氏は開幕から3試合連続でリリーフ登板。3戦目の4月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では3番手で1回を無失点に切り抜けて勝利投手になった。4月12日の広島戦(ナゴヤ球場)に先発し、7回4安打2失点の好投でシーズン2勝目をマーク。そこからは先発ローテーションに入った。7月1日の広島戦(広島)での8回1失点投球で6勝目。だが、それ以降全く勝てなくなった。

「その年の6勝目は覚えています。北別府(学)さんと投げ合ったんですよ。その時は感触がよかったし、手応えもあったんですけどね……。前半は6勝4敗1セーブで勝ちが先行していたんですが、結局、6勝8敗。完全に尻すぼみでした」。1シーズンを通して1軍に居続けたのは初めてのこと。「やっぱりスタミナの問題はあったかもしれません。規定投球回に到達したのも初めてだったので、ペース配分というか、そういうのも含めてまだまだでしたね」。

 4年目、5年目とうまく行きそうになったら、何かが起きる。これがプロの壁というものだろう。5年目のオフ、都氏は海を渡った。「大洋と阪神と中日の3チームから、それぞれ7、8人くらいが派遣されて合同チームを作って、教育リーグでアメリカのチームと対戦しました。フロリダのセントピーターズバーグで40日間くらい。10勝16敗くらいでしたかね」。この米国経験がプラスになったという。

「こんなバッター、日本に来たらすごいやろなって感じで(米国選手を)見ていましたけどね。ちょっと押したり、引いたりみたいなヤツも多少意識しながら投げて……。自分は2勝くらいしたと思います」。パワフルな打者を抑えたことが自信にもなったそうで、それが翌年にもつながった。都氏は1982年のプロ6年目に16勝をマークして中日の優勝に大貢献。ついに“壁”をブチ破って飛躍する時が来た。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY