母から聞いたトレードに「は?」 “監督命令”で米禁止…空腹に「クラッカー食べた」

西武などでプレーした石井義人氏【写真:湯浅大】
西武などでプレーした石井義人氏【写真:湯浅大】

石井義人氏は1996年ドラフト4位で“マシンガン全盛”の横浜へ「ついていけない」

 西武、巨人などで活躍した石井義人氏は埼玉・浦和学院高で3度甲子園に出場。1996年ドラフト4位で横浜(現DeNA)に指名された。6年間所属したが目覚ましい成績を残すことができず、2002年オフに西武へトレード。この移籍は、まさかの形で知らされたという。

 強豪校で1年時から、主にサードやセカンドで活躍した石井氏は横浜へ入団。「特に行きたい球団はなかったです。どのチームでもやることは同じ。自分のことをやって結果を出す世界だから」。高い意識でプロの世界に飛び込んだ。当時の横浜はマシンガン打線を“代名詞”に1998年に日本一に輝くなど球界を席巻していた。

「すぐには試合に出られないんだろうなと思った。あのメンバーだからね。自分の目標にしたのはアベレージタイプの石井琢朗さんでした。自分とはスイングスピードが全然違う。高卒上がりの俺なんてついていけない。とんでもない世界だと思いました」

 1年目の1997年に10試合に出場しプロ初安打もマークしたが、2年目は1軍出場機会なし。3年目の1999年には「2軍で開幕してから打率.370くらい打っていた」というが、夏場にスライディングで地面に右膝を強打すると、腫れが引かずに水が溜まるようになっていた。

 右膝は高校1年の冬に腫瘍除去手術を受けた“古傷”がある箇所。当時は復帰まで1年を要するとされていたが約2か月でグラウンドに戻った。しかし、この復帰が早すぎたために、移植した骨がしっかりと馴染まずにすり減っていたことが、腫れが引かない原因だった。再び右膝に骨を移植する手術を受けた。

母から「西武にトレードになっているよ」で移籍知るも安堵「チャンスをもらえた」

 手術の影響もあり1999年は1軍出場機会に恵まれなかったが、2000年は41試合ながら打率.328をマーク。2001年には西武を8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた森祇晶氏が監督に就任し、入団後最多の53試合に出場したが、2002年は若手の台頭もあり22試合に減った。

「監督が森さんになって、試合前の白米は禁止になりました。試合で動けなくなるからと。自分は用意されていたクラッカーを食べていましたね」

 突然の出来事は2002年オフに訪れた。ある朝、コンビニエンスストアに出掛けていると携帯電話が鳴った。母が新聞を読んで驚いてかけてきたのだった。

「あんた、西武にトレードになっているよ」

「は? 何も聞いていないよ」。急いで自宅に戻り、読んだ記事には自身と細見和史投手が中嶋聡捕手、富岡久貴投手との2対2のトレードで西武に移籍するというものだった。当事者に知らされる前に新聞報道で知った移籍。“順番”は違ったが怒りの感情は湧かなかった。

「高卒6年目を終えたところでした。代打が多くなっていて結果を残すのが難しく、試合に出られなくなっていたので、そろそろクビになるかもしれないと思っていた。またチャンスをもらえて良かったと思いました」

 球団事務所に呼び出され「知っていると思うけどトレードになります」と正式に通達された。その日は横浜の選手会納会。石井氏は引退する選手らと共に、仲間へ別れの挨拶をした。「地元埼玉の球団への移籍だし、いい転機になると思いました」。母から知らされたトレードは、素直に受け入れることができた。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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