「高校に行かんのは駄目」 広島・白武佳久の激変した人生…自衛隊希望も「受かってしまった」

広島のスカウト統括部長を務める白武佳久氏【写真:山口真司】
広島のスカウト統括部長を務める白武佳久氏【写真:山口真司】

白武佳久氏は中学で陸上部入部も顧問が産休…監督の誘いで軟式野球部へ

 北別府学、山根和夫、大野豊、川口和久、津田恒実……。広島が「投手王国」と称された時代はそうそうたるメンバーだった。そんなハイレベルな陣容で「先発ローテーションの谷間」など限られた役割をこなしたのが白武佳久氏だ。1982年ドラフト2位で日体大から入団した右腕。1989年オフ、ロッテに移籍。広島に復帰し、現在は広島スカウト統括部長を務める。その波瀾万丈の野球人生は「やりたくない」から始まったという。

 白武氏は長崎・佐世保市出身。佐世保工3年の1978年夏の甲子園に出場。日体大2年の1980年には、原辰徳内野手(元巨人)らを擁する東海大の首都大学リーグ10連覇を阻止して優勝に貢献した。大学3年の1981年は春秋連続優勝&MVPと大活躍してプロ注目投手になり、広島に入団するが、少年時代は、そんなことなど夢にも思っていなかった。それどころか「野球をやりたいとは思ってもいなかったです」と話す。

 男ばかりの4人兄弟の末っ子。8歳上の次兄が中学、高校で野球をやっていたため「ボールを上げろとか、手伝えって言われて、やらされていたんですけど、それが嫌だったんです。だって、それをやると遊びにいけないですからね」。日野小時代は「ソフトボールはやっていましたけど、町内会でやるレベル。悪ガキで、野球なんて別にやらんでも、って感じでいました。運動は、器用さはないけど、足が速いとか肩が強いとかはありましたけどね」。

 相浦中では陸上部に入った。「足が速いから順番に強制的に入れられた感じでした。高跳びをやっていましたけど、何か面白くなくてね。1年の時に大会にも出たし、もういいかな、いつやめたろうかなって思っていたんです。そしたら2年の半ばすぎに野球部に来ないかって話になって……」。きっかけは陸上部の顧問が産休になったことだという。「陸上の先生がいなくなった時に、軟式野球部の監督から『野球やらんか』と言われたんです」。

 陸上への興味が薄れはじめたこと、陸上部の顧問がいなかったこと、加えて「野球部の監督はウチの兄貴のことも知っていて、それで声をかけてきたみたいなんですよ」。いろんな要因が重なって野球をやることになった。「それこそ陸上の先生が産休になっていなかったら、野球はずっとやらないままだったかもしれないですね」と白武氏は話す。最初は外野手だったが「3年になってピッチャー。確か、市の大会では準決勝くらいで負けたんじゃないかな」という。

自衛隊に入る予定も…兄の勧めもあり佐世保工へ進学

 とはいえ、中学時代に野球でいろんな高校から注目を集めたわけではない。「自分の中では進学せずに自衛隊に入るつもりでいました。働きながら、勉強しながらっていうのがあると聞いていたし、友だちも何人か行くって言っていたのでね、そこに行きたいって、そういう話を進めていました」。野球は完全に切り離して進路を考えていた。その流れが変わったのは、佐世保工OBで野球経験者である次兄の言葉だった。

「兄貴が『佐世保工の(野球部)監督にお前のことを言ってあるから受けてくれ』って言ってきたんです。高校に行かんのは駄目だってね」。これに対して白武氏は「工業の機械科に落ちたら(高校には)行かんよって話をした」という。公立の佐世保工のなかで「当時、機械、電気、建築は頭のレベルが他より高かった。別に受からなくてもいいと思っていたから逆に高いところを選んで受けたんですが、受かってしまったんですよ」。それで一転して高校進学となったそうだ。

 佐世保工野球部では試練の日々が待っていた。「1年の夏まではバッティングピッチャーを毎日やらされたけど、コントロールが悪いから、ぶつけたら怒られて、ぶつけたら怒られての繰り返しでしたね。ぶつけないようにと思っていてもぶつけてしまうんですよ。今はスカウトをしているのでよくわかるんですが、腕が離れて、抜けるような投げ方をしていたなって思いますね」。

 それでもやると決めたら、逃げなかった。どんな境遇でもめげなかった。練習を重ねた。「まぁ、よく投げたと思いますよ。(佐世保工の)得永(祥男)監督が、最初からピッチャーをやらせるからということで、投げることと走ることばかり。ノックとかはほとんど受けていなかったですね」。好きではなかった野球、次兄に言われなかったら続けることもなかったはずの野球が、いつのまにか白武氏に欠かせないものになっていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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