松坂大輔を「特別扱いできなかった」 22年経っても“後悔”…頭に残る指揮官の「ほっとけ」
元西武の松沼博久氏は現役引退後、ロッテと西武で投手コーチを務めた
コーチ業は“中間管理職”だった。弟の雅之氏と一緒にドラフト外で西武に入団し、「兄やん」の愛称で親しまれた野球評論家の松沼博久氏は、アンダースローの先発としてライオンズ一筋112勝をマーク。現役引退後はロッテ、西武の2球団で投手コーチを務めた。「コーチは難しかったですね」。指導者時代を振り返った。
ロッテでは1995年から5年間担った。苦い思い出は1998年のプロ野球ワースト18連敗(1分けを挟む)。1軍投手コーチは2人で、当初はブルペン担当だった。14歳上の中村稔コーチは「割と適当な人で、僕的にはやりやすかった。だから最初はあんまり重く考えず『まあ、しょうがねーよな』ってぐらいの感じ」。近藤昭仁監督の下でのミーティングの雰囲気も「あんまり細かいことは言われず、『きょうは勝つぞ』『そろそろ勝つ頃だよ』と前向きでした」。
課題は明確だった。「普通からいったら、そんなに負けるはずはないんですよ。でも、あの時は抑えがいなかった」。先発陣の柱、“ジョニー”こと黒木知宏投手を緊急事態で据えた。ところが2戦連続で黒星が付くなどハマらない。「あれは失敗でしたね。ジョニーなら最後の1イニングを締められると考えたんですけど」。負の連鎖は止まらず、中村コーチは連敗の途中で更迭された。
“七夕の悲劇“と呼ばれるワースト更新17連敗目。オリックス戦に先発した黒木は3-1で迎えた9回2死一塁、カウントでも追い込んでいながら同点2ランを浴び、力尽きた。最後は延長サヨナラ負け。「祈ってましたね。ジョニーがバテていたのは分かっていました。でもアイツしかいないだろって。まさかホームランを打たれるとは……」。真夏の夜の悪夢を嘆いた。
松沼氏は、2002年には古巣・西武の1軍投手コーチに就任した。ライオンズは4年ぶりのリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズは巨人に4戦4敗の屈辱を味わった。
この年はエース松坂大輔投手が肘の故障で、レギュラーシーズンは6勝止まり。「特別扱いできなかったのが、僕の誤算だったかなぁ」。“平成の怪物”は、横浜高校での甲子園春夏連覇を引っ提げて入団。デビューから3年連続最多勝に輝き、怖い物知らずで迎えた4年目だった。
アンダースローは「減っているからこそ抑えられる。“絶対”に応援したいです」
「その辺をもう少し持ち上げれば気持ち良く投げてくれたのかな、と思いますね。当時は、あんまり練習が好きではないようでした。率先してやってくれたらよかったのですが。皆をまとめるのに特別扱いはしたくなかった」
伊原春樹監督はチームの顔を尊重した。「『大輔だけは、ほっとけ』と指示されました。日本シリーズも『大輔と心中するから』と」。松坂は結果的にシリーズは第1戦の先発など2登板で2敗を喫した。「万全じゃなかったですから」と残念がる。
野球評論家として、同じ下手投げに目が行く。「でも最近は見る機会が本当に少なくなりました」。理由については「僕らの頃にはそんなにいなかった左バッターがもの凄く多くなった。今は打線に並べようと思ったら、7~8人は並べることができるからね。きちんと投げ切れればいいけど、ちょっと甘く入ると打ち易い」と解説する。
その上で下手投げの利点を挙げる。「逆に減っているからこそ、抑えることができると思います。今はバッターは下手投げと対戦する経験がほとんどない。練習しようにもマシンもない。以前は打撃投手にもアンダースローがいたんですよ」。
過去のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表には、渡辺俊介(元ロッテ、社会人・日本製鉄かずさマジック監督)、牧田和久(ソフトバンク3軍ファーム投手コーチ)が存在した。「右左のオーバースローに加えて、流れを変える布陣としてアンダースローは必要でしょう」と力説する。
取手二高(茨城)時代に監督からの命令で嫌々ピッチャーに取り組み、自らの工夫で投げ方を変えた。東洋大ではエースにのし上がり、東京ガスでは現在も破られぬ都市対抗記録を達成。西武では球団創設初勝利をもたらした。松沼氏が自身の代名詞とも言える投球フォームに対する愛情は深い。「アンダースローの投手は“絶対”に応援したいです!」。今や“絶滅危惧種”とさえ呼ばれる投法が増えることを熱望している。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)