中日入団拒否も…ドラフト会議で強行指名 “本命巨人”に対抗、翻意させた意地の往復

中日でスカウトを務めた法元英明氏【写真:山口真司】
中日でスカウトを務めた法元英明氏【写真:山口真司】

三沢淳投手は1970年に中日に3位指名されるも拒否…社会人の新日鉄広畑に進んだ

 中日は1970年ドラフト会議で、島根・江津工の三沢淳投手を3位で指名した。社会人野球・新日鉄広畑(姫路市)への入社が決まっていた中での強行指名。そのオフは入団拒否を食らったが、当時は高卒1年目社会人もプロ入り可能で、交渉権有効期間内だった翌1971年ドラフト会議の4日前に中日入りとなった。その時に“三沢係”を務めたのが、中日の伝説のスカウトと言われる法元英明(ほうもと・ひであき)氏だ。獲得にたどりつくまでには様々な出来事があったという。 

 下手投げの三沢はプロ2年目の1973年から3年連続2桁勝利をマーク。中日優勝の1974年も11勝を挙げて貢献するなど、長きにわたって、中日の主力投手として活躍した。1984年オフに日本ハムに移籍。1986年に現役引退した後は、名古屋を中心に評論活動を行い、優しい語り口による分析に加え、時折ギャグも交える明るい性格もあって人気を博した。1996年には政治家に転身し、衆議院議員を1期務めたことでも話題になった。

 そんな三沢は、法元氏が“スカウト2年生”だった1970年の中日ドラフト3位。「僕は『三沢は新日鉄広畑に決まっています』と報告していた。だから指名した時はびっくりしたね」。三沢は江津工3年だった1970年に甲子園大会に春夏連続出場。広陵・佐伯和司投手(元広島、日本ハム)、箕島・島本講平投手(元南海、近鉄)、岐阜短大付・湯口敏彦投手(元巨人)とともに注目の投手だったが、選抜大会後には進路を新日鉄広畑に“内定”させていた。

「僕は三沢の家に行って確認もした。そしたら新日鉄広畑にもう返事もしていた。早い段階から(獲得に)動いてくれたことを意気に感じてね。それで『ありがとうございました。ドラフトしません』と言って僕は帰ってきたんです」。それは他球団も把握しており、指名を回避。ところが、中日はその状況を承知の上で強行指名した。「水原(茂)監督が『俺が行くから』って指名したんですよ。姫路の商工会議所の会頭だったかな、その人が後輩だから、ということでね」。

 だが、三沢-新日鉄広畑ラインはそれ以上に強固だった。法元氏は「新日鉄広畑の野球部長の高田さんに『なぜ指名した』と怒られた」という。水原監督も直接出馬。「新日鉄の重役の人と食事をして、水原さんは頭を下げてはったけど、それでも話にならへんかった」。なすすべもなく入団拒否。予定通り、三沢は社会人野球に進んだが、中日も諦めない。当時の交渉期限は1年後のドラフト会議前日まで。それをにらんで法元氏は“三沢係”を命じられた。

法元英明スカウトが奮闘…実家通いで三沢の母から得た信頼

「『他のことは何もせんでいい』って言われて、三沢の投げる試合は全部見た。いろいろ調べて練習試合も含めてね。そしたらまた三沢が抑えるんよ……」。1971年の都市対抗野球大会で新日鉄広畑は優勝。三沢はその原動力となり、中山拓郎捕手とともに、大会を通じて素晴らしい活躍をした選手、チームに贈られる小野賞を受賞した。三沢株は上がる一方で、1971年ドラフトの目玉にもなりそうな勢いだった。

「ドラフトで指名すると言ってきた球団もいっぱいいたよ。もちろん1位でってことでね。巨人のスカウト部長は前川八郎さん。新日鉄の前の監督なんだわ。『ウチに来い、ウチに来い』ってね。三沢も半分はそのつもりだったと思うよ」。そんな中、“スカウト3年生”の法元氏は必死になった。「三沢、三沢、三沢って三沢のことばかりで頭離れないもん。(新日鉄広畑がある)姫路、(三沢の実家がある)浜田ラインは30回以上、行ったんじゃないかな」。

 訪問回数を重ねることで、三沢の母・貞子さんの反応も変わってきたそうだ。「3回目までは玄関先で『よろしくお願いします』というだけだったけど、4回目から家に上げてくれた。5回目を過ぎてからはビールが出てきた」。法元氏の熱心さが徐々に伝わっていったということだろう。「僕の話も聞いてもらえるようになった。僕を信用してくれた。新日鉄広畑の高田部長が奥さんと一緒に家に来るということも教えてくれたんです」。

 新日鉄広畑サイドが三沢の残留を希望しているのは明白だった。法元氏はその当日、三沢家を訪問。「高田さんたちが来る前にお母さんと話をして『残ってくれと言われても首をタテには振らないでください、横に振る必要もないけど、黙って聞いといてください』とお願いした。僕も近くにいますからって言ってね。お母さんは了承してくれた。高田さんたちが来た時、僕は三沢家の裏庭の木の陰のところにいた。犬に吠えられてたまらんかったけどね」。

 約束通り、貞子さんは首をタテに振らなかった。法元氏は「その時かなぁ、お母さんは中日に行かせてもいいなと思ってくれているって確信できたのは……」。残る問題は、新日鉄広畑のガードが強くて三沢本人とまともに話ができていないことだった。「今でこそ言えるけど、寮から夜中に引っ張り出したんだよ」。法元氏と自身と同じ関西大出身の新日鉄広畑・白滝政孝外野手を呼び出した。「『頼むから三沢を連れてきてくれ、ひと言だけでも話したいんや』と言ってね」。

「夜中の2時頃、僕の車に乗せて、近くの公園で停めて何とか三沢と話をした。お願いしたわけよ。ものすごい雨が降っていたのを覚えている。で、話をしていたらさ、いきなり懐中電灯で顔を照らされた。パッと見たら兵庫県警って書いてあったからびっくりしたよ。『君たち、こんな夜中に何をしているんだ』って言われて『仕事のことでトラブったのでちょっといろいろと話をしているんですわ』ってね。あんな時間だったから不審に思われたんだろうね」

三沢は1971年ドラフト前に中日入り…大きかった母の助言

 そんな深夜会談を経て、三沢の獲得がドラフト会議前までに決まった。「一番はお母さんだと思う。1回、僕の見ている前で『法元さんがこれだけいらっしゃっているのに、アンタは』って三沢を怒りはったことがあった。三沢は巨人に行きたかったのかもしれないけど、とにかくお母さんの言うことは忠実に守っていたからねぇ……」。ちなみに三沢を呼び出した白滝は1971年ドラフト3位で中日入り。「それはたまたま。他のスカウトが打撃を買っていたんだよ」。

 当時を思い出しながら法元氏はこんなことも口にした。「三沢で難儀している時に日生球場で(社会人野球)大丸のピッチャーを見て、こいつも面白いと思った。もしも三沢が無理なら、こっちでもいいんじゃないかって考えて上に報告した。全然、人の話を聞いてくれなかったけどね。とにかく、三沢、三沢ってなっていたから」。その時、法元氏が推薦したのは大丸・小林繁投手。その年(1971年)のドラフト会議で巨人が6位指名し、三沢のケースと同じく1年後のドラフト会議までにプロ入り。巨人、阪神で主戦投手として大活躍した。 

 三沢を逃した巨人が小林を指名、獲得したわけだが「もしかしたらウチも小林を獲れていたかもねぇ」。スカウト活動の流れひとつで、いろんなケースが考えられた三沢獲り。「最後まで油断できなかった。でも三沢は僕のことをずっと見ていたみたい。練習試合とかでも、今日も来ているってね。思えばドラフトで強行指名したのが良かったんだね。あの時は困ったけどさ」。いろんなことを経験できた。そのすべてを法元氏は忘れることはない。

 三沢さんは2022年3月3日、中皮腫のため帰らぬ人となった。69歳だった。元気だったら、法元氏が総監督を務める2024年7月25日の中日OB戦にも明るい笑顔で登場していたことだろう。「僕の誕生日に亡くなったんだよね……。ホント、人のええヤツやったなぁ。ダルビッシュを見たらいつも思うねん。首の長ーいところが三沢とよく似ているなぁってね」と法元氏は寂しそうにつぶやいた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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