聞いたことない高校進学、誤算だらけに「ミスった」 後悔も…運命変えた名将との出会い
的場寛一氏は愛知・弥富高に進学…金城孝夫監督から熱心に誘われた
熱心な勧誘に心を揺さぶられた。兵庫・尼崎市出身の元阪神ドラフト1位・的場寛一氏は高校から地元を離れ、愛知・弥富(現・愛知黎明)に進学した。当時の弥富・金城孝夫監督からスカウトされてのことだった。「ウチには上下関係がないから」と言われたのも決め手のひとつだったという。だが、進路を決めての練習見学の日には「ウワッ、ミスったぁ」。加えてライバル高校についても「あの学校って愛知県だったの」とあまりにも知らなさすぎた……。
的場氏は中学時代、父・康司さんが監督を務めたボーイズリーグ「兵庫尼崎」でプレーしたが、目立った活躍はできなかった。「準レギュラーというか、補欠でした」。だが、野球は続けたいと考え、当初は兵庫・神港学園への進学を検討していた。「父が『厳しいけど、行ってみるか』と勧めてくれた。兵庫尼崎は神港学園にルートもあったんでね。強い学校だけど、僕もそういうところでやってみようかなぁって思っていたんですけどね」。
流れが変わったのは1992年の中学3年の夏前頃だったという。「練習試合だったか大会だったか、忘れましたけど、試合にちょろっと出させてもらったのかなぁ。それを金城監督が見ていた。関西地区の選手が欲しいということで見に来られていたんです。後で聞くとボール回しやノックを受けているのを見て投げ方がきれいなので『あの子が欲しい』と父に言ったら『ウチの息子なんです』、『え、そうなんですか』ってなったそうです」。
それ以来、金城監督からよく電話がかかってきたという。「毎晩じゃないですけど、スポット、スポットでね。『どうや』とか、たわいもない話でしたけど、そのうち、父が『神港学園って言っていたけど、これだけ愛情を注いでくれる監督はそういないから、そっちへ行け、大切にしてくれるはずやから』とボソッと言ったんです」。的場氏は「確かになぁっては思いました」という。そして決断した。
疎かった高校野球事情…群雄割拠の“愛知勢力図”に「ミスったなぁ」
「正直、聞いたこともない高校だったし、どこなんって思ったけど、金城監督は『ウチは上下関係がない』って言っていたし、兵庫尼崎からは僕を含めて5人が誘われていて、みんな越境で行くって言うし、友達が行くのだったら行くわって、お願いすることになったんです」。だが、初めて弥富高を訪れた際、衝撃を受けたという。「忘れもしませんよ。家族の車で行ったんですけど、どんどんどん田舎の方に行って、ええーっ、マジーってなりました」。
場所も含めて、よく調べてなかったようだが「あの頃は寮もお化け屋敷みたいな感じだったんですよ。『ウワッー、ミスったぁ。嫌や、嫌や、でも今さら断れないよなぁ』って言っていた記憶もあります」。計算外は他にも。「入学式の時に初めて知ったんです、中京とか愛工大名電とか聞いたことがある学校が愛知県だったことを。当時は(地方大会)出場校の数も兵庫県より愛知県の方が多いこともわかって、これもミスったなぁって思いましたね」。
いくら何でも知らなさすぎたが、それが現実だった。「だって、大阪や兵庫よりはむしろ甲子園のチャンスもあるんじゃないかと思って(弥富に)行きましたからね。もうとにかく高校3年間を何とか乗り切ろうって思うしかなかった。ないと言っていた上下関係も実はありましたし……」。弥富での3年間で甲子園には1度も出場できなかった。だが、金城監督とともに過ごした日々は的場氏にとって、次の世界につながるものともなるのだから、結果的にはプラスになった。
当時、弥富高監督だった金城氏はその後、1998年に沖縄尚学の監督に就任。1999年選抜大会で沖縄県勢初の全国制覇に導いた。2006年からは長崎日大の監督に。大瀬良大地投手(広島)を育てたことでも知られる。高校球界の名将は2019年に愛知黎明(元・弥富)の監督に復帰している。的場氏は「僕らの頃は見た目から怖そうなおっちゃんやなと思ったくらいだったんですけどね」と話しながらも、弥富に誘ってくれて、鍛えてもらった恩師に感謝している。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)