阪神4番の重圧も…指揮官「絶対代えない」 FA大物の“献身”に覚めた酔い「初めてみた」

阪神監督時代の星野仙一氏(左)と濱中治氏【写真提供:産経新聞社】
阪神監督時代の星野仙一氏(左)と濱中治氏【写真提供:産経新聞社】

濱中治氏は阪神が優勝した2003年の開幕4番…忘れられぬ決起集会

 長距離砲として阪神などで活躍した濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)はプロ7年目の2003年シーズンを開幕4番で迎えた。前年オフに広島からFAで金本知憲外野手が加入した中での起用だった。3月28日からの横浜との開幕3連戦(横浜)で無安打に終わる苦しいスタートだったが、そこから立ち直って4月は8本塁打をマーク。星野仙一監督の言葉で引き締まったという。

 星野監督が阪神を率いたのは2002年、2003年の2シーズンだけだったが、濱中氏にとっても影響は大だった。「気持ちというか、向かって行くことの大事さというか、その辺をすごく叩き込まれました。2002年のキャンプ最初のミーティングでは『俺はお前らを優勝させたるから』って。万年最下位のチームだったし、言われた時は『えっ』て思いましたけど、常に攻める心で野球をやらせてくれた。この人についていきたいと思える監督でした」。

 2002年の星野阪神は開幕から7連勝。「その年は最終的には4位でしたけど、もしかしたらホンマに行けるんじゃないかって感じのスタートでしたからね」。そのオフ、闘将は大規模な“血の入れ替え”を敢行。主軸を任せられる存在として広島・金本をFAで獲得した。そんな中で濱中氏は2003年シーズンの開幕4番に起用された。「聞いた話ではカネさんが『若い選手に打たせてやってください』と4番を断って、僕が打つことになったそうです」。

 FA移籍1年目の金本は「3番・左翼」でスタート。敢えて阪神生え抜きの存在を尊重したようで、濱中氏は開幕直前の決起集会での出来事も忘れられないという。「カネさんに『ランナーがいたら俺が全部進めてやるから、あとは全部、お前が返せ』と言われたんです。酔いが覚めたのを覚えていますね。で、実際、カネさんはその通りだったんでびっくりしました。あそこまで徹底してチームのために野球ができる人を初めて見た。すごいなと思ったし、勉強になりました」。

 チームも“金本効果”で変わっていった。「それまではちょっと痛いくらいで休む選手もいましたが、カネさんは骨折しても出るような人なんでね。今まで出なかったのが恥ずかしかったくらい。試合に出ることの大事さもすごく教わりましたよね」。しかしながら、「4番・右翼」で迎えた開幕の横浜3連戦で濱中氏でいきなりつまずいた。初戦(3月28日)は3打数無安打1四球、2戦目(3月29日)は3打数無安打2四死球、3戦目(3月30日)は5打数無安打1打点だった。

 やはり重圧もあったのだろう。「3連戦で僕だけノーヒットだったんですよ」。打率.000から脱出したのは2カード目初戦の4月1日の広島戦(広島)4打席目。開幕から18打席目だった。「詰まったライト前ヒットを打ちましたね。1本打ったら、ポンポンと出るようになったんですけどね」。その日は5打席目も中前打で2安打。翌2日も2安打をマーク。3日の試合では広島・長谷川昌幸投手からシーズン1号本塁打を放った。

星野仙一監督からのゲキ「絶対4番を代えないから」

 濱中氏は当時を思い起こした。「4月半ばくらいでしたかね、4番で結果が出ていない時に星野監督に呼ばれて言われたんです。『俺は絶対4番を代えないから、自分の力で何とか這い上がってこい』って。そこで僕の気持ちが引き締まったというか、監督はそこまで考えてくれているんだと思いましたし、その言葉で意気に感じてやりましたね。そこから調子は上がっていったと思います」。

 闘将との思い出もいっぱいある。4月20日の横浜戦(甲子園)で濱中氏は和歌山・南部高時代からのライバルで、星林高出身の横浜・吉見祐治投手から1、2打席目に6号、7号を連発した。「あの時、甲子園はけっこう雨が降っていたんです。試合に勝っていたし、星野監督が『初球から全部打てぃ!』って。『濱中がこんな2打席連続で打つことなんかないから早く試合を終わらせるぞ』とか言ってね」。

 試合は阪神が9-3で勝利。「バンバン打って5回成立したんですけど、結局ベタベタになりながら最終回までやったんですよ。何かそれ、すごく覚えていますね」と濱中氏は笑みを浮かべた。連発といえば、10号、11号を放った5月11日の横浜戦(横浜)もそう。「あとで、新聞で読んだんですけど、星野さんが褒めてくれたホームランなんです。“これぞ4番のバッティングや”って書いてありました」。

 とりわけ、横浜・斎藤隆投手から放った10号は「完璧なホームランだった」という。「横浜スタジアムの最上段に行ったくらいの当たりでした。インサイドに真っ直ぐが絶対来るやろうなと思ったんで、ちょっと足を開き気味で打ちました。自分のなかでは上位クラスのホームランでしたね」と濱中氏は話した後、声のトーンを落としてこう続けた。「でも、その日のホームランがシーズン最後、この後、怪我モードに入っていくんですよねぇ……」。

 鉄人・金本と闘将・星野の言葉に奮起し、2002年から田淵幸一チーフ打撃コーチと取り組んだ“うねり打法”を駆使し、配球など野村克也前監督の考えもプラスして、より豪快なホームランを打つようになった。このまま阪神の4番打者として一気に突き進むはずだったのだが……。5月20日の広島戦(甲子園)で右肩亜脱臼のアクシデントに見舞われてから状況は一転していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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