岡田監督の一言に「ホンマにムカついて」 新聞目に“怒り”「プライド傷つけられた」

2006年05月21日のオリックス戦で本塁打を放つ濱中治氏【写真提供:産経新聞社】
2006年05月21日のオリックス戦で本塁打を放つ濱中治氏【写真提供:産経新聞社】

濱中治氏は2006年に打率.302、20HR…3度の右肩手術を経て復活

 阪神などで活躍した濱中治氏(野球評論家)がキャリアハイの成績を残したのはプロ10年目の2006年。139試合に出場して打率.302、20本塁打、75打点。2003年と2004年に計3度受けた右肩手術を乗り越えての活躍だった。「何が良かったのかと言われたらわからないんですけどね」と笑いながら振り返ったが、気持ちは燃えに燃えていたという。開幕前の岡田彰布監督のコメントに発奮。「結果で見返すしかないと思っていた」と吐露した。

 濱中氏は2003年7月に右肩脱臼、右肩関節唇損傷による手術を受けた。その年の日本シリーズで復帰できたものの、翌2004年も右肩痛で離脱し、今度は7月と9月に2度も手術を受けた。「もう野球はできない」と一時は絶望感いっぱいのどん底状態に陥ったが、ファンからの激励を受け、立ち直った。リハビリに励み、2005年はセ・パ交流戦から1軍昇格。守備は無理だったが、5月6日の日本ハム戦(札幌ドーム)に「7番・指名打者」で出場した。

「あの年が交流戦元年。DH制があったのでね。交流戦がなければ復活できなかったので、僕にとってはありがたかったですね。交流戦前の雁ノ巣での2軍のソフトバンク戦でホームランを打ったり、バッティングはいい状態だったので岡田監督は呼んでくれたと思います」。復帰戦は5打数1安打2打点。その後もDHがある試合ではスタメン起用された。6月8日のオリックス戦(大阪ドーム)では1号ホームランも放った。

 交流戦終了後は代打が中心だったが、リーグ優勝に貢献した。東京ドーム、神宮などの敵地で右翼の守備にも数試合就くなど、慣らし運転。0勝4敗で敗れたロッテとの日本シリーズでは、本拠地・甲子園でも第4戦に途中出場で右翼を守った。「いきなりライト線に飛んできたんですよ。ファンの方が“大丈夫か”って感じでざわめいた中で、セカンドへストライク送球。あれで自信になったというか、守備もやっていけると思いましたね」。

 もう一度戦える。そう確信して臨んだのが、2006年シーズンだった。登録名を「濱中おさむ」から「濱中治」に戻し、背番号は「31」から「5」に変えてもらった。「31をつけたときから1桁が空いたら、お願いしますと言っていたんです。31は偉大な先輩(掛布雅之氏)がつけた重たい番号だったのでね」。いずれも心機一転、完全復活を誓ってのことでもあった。

 実際、その通り、結果を出した。3月31日のヤクルトとの開幕戦(神宮)は出番なし。2戦目、3戦目も代打起用だったが、2カード目の4月5日の広島戦(広島)に「6番・右翼」でスタメン出場して第1打席から2打席連続本塁打を放つなど、4打数3安打4打点と活躍して波に乗った。「そこから怒濤の10本が始まったんですよね」と濱中氏が話したように4月は打率.435、10本塁打、22打点と大爆発。3・4月度の月間MVPにも輝いた。

元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】
元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】

岡田監督の一言に「あったまに来たのをすごく覚えている」

「なぜ打てたか、わからない。振ったらタイミングが合ったというか、いい角度でばっかり上がっていたのでね。そういう試合がずっと続いて自分でも怖かったです」と笑顔で話したが、気合はいつも以上に入っていたという。「開幕前に岡田さんの“濱中は林威助(外野手)より下”というコメントが新聞に出ていたんですよ。僕の調子が悪くて、林が結果を出していたのかもしれないですけど、あの時はマジにプライドが傷つけられた気分でした」。

 闘争心に火がついた。「あったまに来たのをすごく覚えているんですよ。ホンマにムカついて……。これはアカン。結果で見返すしかないってね」。もしかしたら、岡田監督の発言は、濱中氏を刺激、発奮させるためだったのかもしれないが、それが起爆剤になったのは間違いない。そのままシーズンを乗り切り、打率、本塁打、打点ともにキャリアハイの数字を残したわけだ。

 右肩のこともあって右翼の守備では仲間にバックアップもしてもらった。「特に藤本(敦士)さんがセカンドを守ることが多かったので、近くまで来てくれたのはありましたね。それに僕の場合は6回か7回で代わることが多く、その後(の右翼)を中村豊さんに行ってもらって……。ホント迷惑をかけました。中村さんには『最後まで守れよ、後から行く気持ちってわかるか』ってよく言われましたけど、感謝しています」。

 鉄人・金本知憲外野手の言葉も印象深いという。「よく3割を残すために残り数試合を休んだりするケースってあるじゃないですか。僕は金本さんに呼ばれて『お前は絶対するな。もし(首脳陣に)言われても断れ。最後まで出なくて3割残したのはホンマの3割バッターじゃない。お前はこれから(阪神を)背負っていくんやから、そんなことをしたらアカン』って言われたんです。そこまで思ってもらえてうれしかったですね」。

 濱中氏は金本のゲキに応えて、最終戦まできっちり出て、リーグ9位の打率.302。堂々と3割打者になった。いろんな人に支えられ、右肩手術を繰り返した苦しい時期を乗り越えての結果だった。もちろん、この時は想像できるはずもない。1年後にトレード移籍が待っているなんて……。その野球人生は、ここからまた変化していくことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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