宝刀生んだ「右肘骨折」 「クビ」回避のため…たどり着いた代名詞のフォーム

日本ハム時代のマイケル中村氏【写真提供:産経新聞社】
日本ハム時代のマイケル中村氏【写真提供:産経新聞社】

サイドスローから繰り出される変化球を武器に活躍したマイケル中村氏

 独特なフォームと変化球は、どのようにして編み出されたのだろうか。日本ハム、巨人などでプレーしたマイケル中村氏といえば、他にあまり類を見ない独特なサイドスローが代名詞。ウィニングボールはスライダーだったが、メジャーリーガーものけぞってしまうほどの鋭いカーブも武器にしていた。

 きっかけはとある怪我だった。1997年にアマチュアFAでツインズ入りし、2年目のキャンプで、右肘を骨折した「原因はわからなかったけど、投げすぎだったのでしょうね」。手術が必要になり、2年目はほぼ全休、3年目も前半は投げることができなかった。「マイナーリーグはいつクビになってもおかしくない世界なので、そろそろ投げないと解雇されるのではないか、という不安がありました」。

 どうしようかと思っていた中で、スリークォーターからサイドくらいの腕の軌道なら、肘の痛みを感じずに投げられることに気がついた。「やってみたら、真っすぐの球威も悪くなかった。それまではずっと上から投げていましたから。手術のあと、クビにならないために思考錯誤した結果、たどり着いたのが横投げだったんです」。

 とはいえ、大きなフォーム変更である。感覚的にはどうだったのだろうか。「最終的にはサイドスローの方がしっくり来る感覚がありました。あとやっぱり、スライダーは格段に良くなったと思う。変化が横に鋭くなったと自分でも感じていました」。まさに“怪我の功名”だった。

「他人に話したことはない」明かした“企業秘密”

 直球のスピードは落ちなかったのだろうか。「真っすぐの球速に関しては、上から投げていたアメリカでのプロ1年目は150キロくらいでしたが、日本(横投げ)では140キロ前後から、速いときは150キロを超えることもあったので、あまり変わらなくなりましたね」。

「あと実を言うと、速球のスピードを意識的に変えて投げていたんですよ」。フォーシームとツーシームのような違いではなく、やんわりと企業秘密を打ち明けてくれた。

「同じ4シームでも、人差し指と中指の間を広げたり狭くしたりしていました。広げるとスピードは遅くなります。例えば左の強打者を迎えた時に、初球は外角のチェンジアップ、2球目は遅い真っすぐ、3球目は速い真っすぐ、という感じで外角だけで3球勝負ができる。どの球も腕の振りは変わらないので、打者からはいずれも速い真っすぐに見えたと思います」

 この投球スタイルは、若い頃からやっていたことだった。「真っすぐの球速に差をつけるのはかなり効果があったと思う。これまでこのことはほとんど、他人に話したことはないですね」。

 中村氏のピッチング哲学は、「第一にコントロール」「第二にボールの動き」だという。「より強いボールを投げようとして2〜3キロ速い球を投げたとしても、狙ったところに投げられないなら打たれてしまう。それならスピードを少し抑えて、コントロールを重視したほうが、結果が良いことが多かったですね」。

 南アラバマ大では豪州からの留学生としてプレー、米国でのプロ入りはドラフト外、日本でのプロ入りもテストを経てと、野球人生は、決してエリートのそれではなかった。それでもNPBでプレーすることを夢見て、その場その場で結果を出し、ついに夢を実現させた。NPBでの8年間は、たゆまぬ努力と妥協を許さない試行錯誤の積み重ねの結晶だったと言えるだろう。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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