「帰っていい」に即反応も…扱いは“ボイコット” 頭に来た指揮官の「使えねぇーんだよ」

オリックス時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】
オリックス時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】

山崎武司氏は伊原監督と波長合わず…名古屋凱旋試合で“トラブル”

 わずか2年で終わった……。山崎武司氏(野球評論家)は2004年シーズン後にオリックスを戦力外となった。2003年1月に平井正史投手と1対1の交換トレードで中日から移籍。その年は22本塁打を放つなど、長距離砲としての存在感を見せたが、2004年は4本塁打と精彩を欠いた。この裏には当時の指揮官との修復不可能な関係があった。きつい一言が耳に残った。どうしても怒りの感情を抑えられなかった。その時にクビは覚悟した。「腹をくくった」と話した。

 2004年シーズン、オリックス監督には伊原春樹氏が就任した。2002、2003年は西武監督を務め、優勝と2位。その間2年連続最下位だったオリックスの再生を期待されてのことだった。当初はいい感じだった。山崎氏は「野球観が俺とは全然違う人と思っていたので、俺はこの人でたぶん(現役を)終わるなって感じでキャンプに入ったんだけど、一緒にやってみると周りがいうような人とは違うのかなと思うようになった」と話す。

「バントエンドランの練習とかやる時も『山崎、谷(佳知)、(ルーズベルト・)ブラウン、(ホセ・)オーティズの4人は、バント練習はしなくていい、お前らにサインは出さないから上がれ』とか言ってくれる人だったしね」。もとより山崎氏は意気に感じて動くタイプ。伊原監督のベテランへの配慮にマイナス的な先入観も薄れて、3月27日の開幕・ダイエー戦(福岡ドーム)に臨んだ。ホームランこそ出なかったが、打撃状態も決して悪くなかった。

 本拠地開幕の3月29日の日本ハム戦(ヤフーBB)は、3打数3安打1打点で勝利に貢献。31日の同カードでも4打数2安打2打点と活躍した。だが、4月に入ってから“ズレ”を感じ始めたという。「開幕してからまだ何試合目かで、俺に送りバントのサインが出たんです。切羽詰まったところじゃないですよ。俺、間違っているわと思ってタイムをとって、三塁ベースコーチもやっていた監督に『バントが出ていますよ』って言ったら『いいから、しろ』って」。

 山崎氏は首を傾げた。「『えーっ、(バントは)ないって言っていたじゃないですか』と言っても『いいからしろ』と言われた」。結果はバントを失敗して最後は三振。「次の打席から外されました」という。「谷佳知もそれをやられたんだけど、あいつはわざとバントを失敗して2ストライク。打てのサインに変わってからヒットを打っちゃうんですよ。俺は三振。その差だったね」と笑いながら振り返ったが、当時はとても穏やかな気分ではなかった。

 そして1度目の“トラブル”が起きた。4月27日からオリックスはナゴヤドームで西武との3連戦。神戸に単身赴任中だった山崎氏にとって、久しぶりの名古屋だ。お世話になった方々や地元のファンに健在をアピールしたいと思い、伊原監督に「ナゴヤドームだけは出してください。お願いします」とスタメンを直訴し、了承された。1戦目(27日)は「7番・指名打者」。もちろん「ああ言った手前、ノーヒットだったらやばいと思っていた」といい、3打数2安打と結果を出した。

中日、オリックス、楽天で活躍した山崎武司氏【写真:山口真司】
中日、オリックス、楽天で活躍した山崎武司氏【写真:山口真司】

「使えねぇーんだよ」にブチ切れ…シーズン終了待たずに名古屋へ

 ここで山崎氏には思わぬ展開が待っていた。「(1戦目に)ヒットを2本打ったし、よかった、これで次の日も出られると思っていたら、スタメンから外されたんです」。2戦目(4月28日)は少年野球チームや多くの関係者を球場に招待していただけにショックだった。「1戦目に谷が足を痛めたのでDHは谷ということだったけど納得できなくて、中村(勝広)GMに話を聞いてもらった。そしたら伊原さんに『GMに言うなんてフェアじゃない』とか言われて……」。

 山崎氏は怒りを抑えられなかった。「伊原さんが『お前、今日は試合に出られる状態じゃないな』と言うから『そうですね』と答えたら『じゃあ、帰っていいぞ』って。そう言われたので帰りました。そしたら俺がボイコットしたって新聞に書かれた。ボイコットじゃなくて帰っていいというから帰ったんですよ。次の日(4月29日)、登録抹消になりました」。そこからギクシャクしたようだが、伊原監督はそのまま“2軍漬け”にはしなかった。

 山崎氏は10日後に1軍復帰。5月9日のダイエー戦(福岡ドーム)と5月10日の近鉄戦(大阪ドーム)には、いずれも「7番・指名打者」で出場して2試合連続ホームランを放った。その後はスタメン落ちが多かったが、与えられた仕事はきっちり全うした。だが、9月5日のロッテ戦(千葉)後に2軍落ちを告げられた時に、また“トラブル”が起きた。「(打撃コーチの)河村(健一郎)さんに『何で2軍なんですか』と聞いたら『わからん。監督に聞いてくれ』となって……」。

 9月5日は「7番・一塁」で4打数1安打。「その時、バッティングもまぁまぁ調子がよかったんですよ。それで何でだろう、と思ったんですけど、まぁ世代交代とか(最下位という)チーム状況もあるし、それで2軍に行ってくれ、とか言ってくれたらいいじゃないですか。でも、伊原さんのところに言って理由を聞いたら『使えねぇーんだよ』と言われて、こっちもブチ切れちゃったんです。もっと言い方があるだろうと思ったし……」。

 伊原監督にもいろんな思いがあったのだろうが、それで事実上、終わった。戦力外。山崎氏はシーズン終了を待たずに名古屋に戻った。「もう腹はくくっていた。これで(現役を)辞めるってね」。この年はオリックスと近鉄の合併が決まり、9月27日の近鉄戦(ヤフーBB)がオリックスもブルーウェーブとしてのラストゲーム。「マネジャーから『伊原さんが最後は1軍でプレーしないかと言っている』と電話がかかってきたけど、断った」という。

「『そんなの行けるわけないだろ、今さら遅いんじゃあって言っとけ』と言ってガッシャーンって電話を切った。嫁さんはあきれていましたよ。『ひどいね、パパは』って」。かなり大荒れの、悪い思い出の方が多い2年間のオリックス生活だったが、そんな時を経て、楽天でホームラン王に輝く時がくるのだからわからないものだ。耳に残った「使えねぇーんだよ」。そこから山崎氏の野球人生はまた大きく変化する。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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