阪神ドラ1に悲劇…いきなり酷使で「終わった」右肩 与えられなかった“猶予期間”

プロ1年目、阪神で活躍した中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】
プロ1年目、阪神で活躍した中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】

ドラ1の中田良弘氏は1年目に38登板で6勝5敗8セーブ、防御率3.39

「今思えば、あの時……」。元阪神投手の中田良弘氏(野球評論家)はルーキーイヤーの1981年に38登板、6勝5敗8セーブ、防御率3.39の成績を残した。シーズン当初は先発がメインだったが、5月下旬からリリーフに回った。当時の救援は1試合で複数回を投げることは普通だったが、先輩の江本孟紀投手からは「お前、こんなに投げとったら肩壊すでぇ」と言われていたという。「案の定、そうなりました」と中田氏は無念そうに振り返った。

 1年目の中田氏は甲子園のラッキーゾーンにあったブルペンで衝撃のシーンを目撃したという。「最初、江本さんが抑えだったんですけど、調子があまりよくなくてね。ブルペンで投げ出したら、すごいヤジで一升瓶がスタンドから投げ込まれたんですよ。あれはびっくりしました。やっぱり大阪って怖いところだなぁってね。で、江本さんは江本さんでスタンドに向かって言い返して、もうピッチングしないんですよ。ホント、すごいところだなって思いましたよ」。

 同年の江本はリリーフエースだったが、シーズン途中から先発に。入れ替わるように救援に配置転換されたのが中田氏だった。6月2日の広島戦(広島)で初セーブをマークするなど与えられたポジションで投げ続けたが、ハードな仕事だった。7月8日の大洋戦(横浜)で1回無失点、7月9日の同カードに連投して3回無失点でセーブ、7月10日の巨人戦(後楽園)に3連投して2回1/3を2失点で敗戦投手。そんな登板が続いた。

 7月21日の広島戦(甲子園)では、4-4の8回から登板して2回を無失点。9回サヨナラ勝ちで手にした3勝目が、1985年8月11日まで続く18連勝の幕開けにもなった。一方で中田氏の体は徐々に悲鳴を上げ始めていた。そんな時に「江本さんに言われたんです。『お前、こんなに投げとったら肩壊すでぇ』ってね」。夢中で投げていたが、8月中旬に右肩の状態がおかしくなったという。

元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】
元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】

中田氏の1年目途中に引退…響いた江本孟紀からの一言

 シーズン34試合目の登板だった8月15日の大洋戦(平和台)で、2/3回を無失点。6勝目を挙げたが、次の登板は9月9日の広島戦(甲子園)までずれ込んだ。右肩痛のため1か月近く登板がなかった。「あの時、試合に出なくてもずっと1軍にいたんですよ。今思うと、治療に専念しないといけなかった。マッサージはしていたけど、ブルペンでちょろちょろっと投げていましたからね。まぁ、そんな時代ではあったんですけど……」。

 9月に復帰してからも、右肩が元の状態に戻ることはなかったという。「あそこで痛めてほとんど終わった感じですよ。自分のボールを放れなくなりましたからね」。横浜高校時代に痛めて以降、万全ではなかった右膝に続いてプロ1年目に右肩も故障。この影響はずっと続き、のちにはさらなる怪我も負った。

 中田氏の体を心配していた江本は8月26日のヤクルト戦(甲子園)に先発して8回4失点で降板し、“ベンチがアホやから騒動”によって現役引退した。中田氏は「ホントに江本さんが言った通り、肩を壊しましたからねぇ」と言い、「あの年、江本さんがずっと抑えをやっていたら、僕はあのまま先発だったかもしれないし、肩も痛めなかったかもしれませんね」と笑いながら口にした。

 中田氏はドラフト1位の即戦力ルーキーとして開幕時から全力を出し尽くした。しかし、夏場まで巨人・原辰徳内野手と新人王を争う成績を残しながら、終盤は右肩痛のため数字を伸ばせなかった。治療に専念しなかったことも含めて「もしも、あの時に」とは思ってしまう。いろいろと悔いが残るルーキーイヤーだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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